変換作用と人間の性欲の関係

●変換作用(へんかんさよう) 人間の最終構成が生まれたときに、対化を顕在化させ、次元の方向性をもとに戻し意識を一度相殺するための等化作用のこと。定質と性質の交替化を作り出すための等化と中和作用のことをいう。


…ここに出てくる、“対化の顕在化”と、“意識の相殺のための等化”という言葉。


“定質と性質の交替化”とあるのは、ヌースの世界観において、構造論として、もっとも基本的な部分。

宇宙的男性原理=定質、宇宙的女性原理=性質、これが、“交替化”する、

宇宙の大きな、まぐ合い、死と再生の循環だと言う。


テキスト版ヌース用語辞典では、“変換作用”の説明に、“性欲”が出てくる。


●性欲 総体的な力の元となるもの。変換作用を起こす力の元。核質(男性の性欲)と反核質(女性の性欲)。


通常、ヌーソロジーで、変換人とか、変換とか言われる時に、“性欲”がどうの、言及されないのではないか(笑)

この“性欲=変換力の力の元”は、“妙性質”に関係するのでは?


● 妙性質(みょうせいしつ) 定質によっても相殺することのできない性質の力の対化。中和に生まれる無限力の対化。上次元から見た人間という存在。妙性質の対化の投影が人間の男と女の肉体。真実の力の無限性。


“変換作用”の説明には、

“人間の最終構成=対化の顕在化”ということと、

“人間の意識を相殺するための等化作用”ということが出てくる。


“性欲=変換力の元”は、“対化の顕在化”に関係するのではないか。

 

…思うに、“生成”に、“中和”が関係し、

“構造”に、“等化”が関係するのではないか。

“顕在化”というのは、等化が先手をとり、中和がその反映として、後手となる構造を取る。

(“潜在化”では、本来、等化が先手を取るべきところを、中和が先手となり…意識構造の転倒…等化作用~精神の働きは、人間の無意識領域にもぐってしまうということ。)


構造として、等化作用が起こることで、その反映として、中和作用が引き起こる。

等化は、精神という上次元であるが、中和は、その反映として、身体~肉体において、引き起こる。下次元である。

そして、中和が、人間の身体に反映されると…下次元への下降…

そこで、“対化の顕在化”が起きる、ということになる。

 

順番としては、

中和→対化の顕在化→対化の等化→等化の反映としての中和

という循環があるということだ。

人間の意識においては、中和→対化の顕在化の部分が見える。

等化作用は見えないわけだ。

これは、“イデア的な作用の純粋領域”であり、高次元空間なので、人間の意識は関与できず、

ただ、“構造”として、幾何学や、数式などの構造として、構造的な照応をやるしかない。構造論的な対称性を照応するということ。

現行のヌーソロジーがやっていることは、これがメインである。

いろんな構造をもってきて、ヌーソロジー本体における構造と照応させる。

 

しかし、“顕在化”に入って、上次元で“等化作用”が起きてきた時に、とうぜんのことながら、その“反映”としての下降現象が起きてくるわけで、

それは、人間の身体~肉体の次元に“反映”されてくるわけだ。

…思うに、

ヌーソロジーが、ある種、“構造論”に終始していたというのは、おそらくは時代的な限界性なども関与しており、

実際的な“変換作用”が始まる“顕在化”の時代である2013年の始まりがおとずれるまで、

実際的には“生成”は起こってこないことから、それまでの間、“構造論”としてある種の“基礎がため”をするしかない事情があったのではないか。

…ここは、“現在のヌーソロジーはまだ骨格しかない”という言い方で表現されていた…

 

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話を“性欲”と“妙性質”に戻すと、

例えば、“妙性質”をめぐる“対化”と“等化”は、このようである。


・妙性質の対化 

中和によって生み出された次元が共性させられたときに生み出された次元。

・妙性質の等化

精神構造におけるすべて(総体)が等化を持ったとき。


中和=つまり等化の反映としての下降があって、そこで“対化”が引き起こる。この場合は、“共性”ということに関係する。

これは、単純に言えば、妙性質が、地上の人間における男女の肉体に反映されると、その具体的な営みが“共性”される、つまり、共同体を作る、ということだろう。


● 妙性質(みょうせいしつ) 定質によっても相殺することのできない性質の力の対化。中和に生まれる無限力の対化。上次元から見た人間という存在。妙性質の対化の投影が人間の男と女の肉体。真実の力の無限性。

●共性(きょうせい) 付帯質の外面における意識状態のすべて。


共性の説明にある“付帯質の外面”は、“外的対象の観察の意識”であるから、通常の、外部的な意識である。

(“付帯質の内面”は、“外部対象と内部対象との等化”。付帯質の外面は、外部対象のみ。)

これは、いわゆる“共通感覚”が“共同体性”を規定しているということに似ている。

(ヌーソロジーがよく、“逆共通感覚”と言うのは、潜在化としての共性からの脱出をニュアンスしていると思われる。)

また、“共性”は、“黄金比”と関係しているとヌーソロジーは言う。

(共性と金星との関係。金星は黄金比イデア。)

黄金比とは、裂開であるから、その裂開性が、肉体次元に閉じているのが、男女の性の営みだということだろう。

ゆえに、共性≒共同体は、それを、“共通感覚”の中に捉えようとする、と考えてよいのではないか。

(昔の日本の共同体では、男女の性の営みが最重要であり、たいせつに、その準備がはかられた。今のように、いい加減ではまったくない。)


・妙性質の対化 

中和によって生み出された次元が共性させられたときに生み出された次元。

・妙性質の等化

精神構造におけるすべて(総体)が等化を持ったとき。


話が戻るが、

中和~対化の顕在化が、生成をめぐり、

等化は、その具体的な生成の次元を、もたらす上次元構造の働きである。

 

…で、ここから本論となるが、

“性欲”が、顕在化における“変換力”の力の元となるわけだから、ここではおそらく、

人間の性の営みに、根本的な“変質”が起こるではないだろうか。

今、日本社会がセックスレスとなり、また、このような肉体や情動の分野で、日本人の社会が世界に先立ち“先行”しているとの観方もある。(社会学者の宮台真司氏。)

いったん、セックスレスとなること。

つまり、従来的な男女の性の営みが、いったん“相殺”される傾向にあることと、“最終構成→顕在化”ということが関係があると思われる。


●性欲 総体的な力の元となるもの。変換作用を起こす力の元。核質(男性の性欲)と反核質(女性の性欲)。

 


…以下、余談。


・妙性質の中和

存在はするが、説明不能


“妙性質=中和に生まれる無限力”であるから、“中和の中和”というものが説明不可能となる、のニュアンスだろう。

つまり、中和の本質としての妙性質が、男女の肉体と性に関係があるとして、そこに深淵があるので、深淵の深淵は説明できない?

“妙性質=定質によっても相殺することのできない性質の力の対化”

というのは、定質の等化作用により、相殺し切れない性質の対化があるということである。

それゆえに、定質と性質、宇宙的男性性と女性性との“対化”があると。

男が観察し切れない、説明し切れない、肉体的な部分が、性としてあり、それが女性の意識の中に反映されているという話は妥当かと思われる。

…“核質=男性の性欲”、“無核質=女性の性欲”の部分も要検討。

 

…“性欲 総体的な力の元となるもの”に関しては、

 

● 総体(そうたい)

脈性を生み出すまでに生み出されたもののすべて。対化の内面と外面にあるものすべて。

・総体の内面(そうたいのないめん)
観察精神が生み出されているところ。

・総体の外面(そうたいのがいめん)
人間の意識が活動を行っているところ。


脈性は水と関係があるらしい。

“対化の内面と外面”は、もっとも巨大な、対化そのものの、構造だろう。

それが、観察精神と、人間の意識との、対化である。

これは、神的なものと、人間との関係だろう。

それが“総体”ということの意味合い。

 

…そのような意味での、“性の力”を、

“脱表象化”としての、意味の外、つまり、共通感覚~共同体の外に置くこと。

おそらくそれが性の本来性のあり方、場所だろうが、

その方向性が、“変換力”が引き起こる“顕在化”における人間の意識と関係があると考えていいと思われる。

…そのためには、従来的な“性”にまつわる一般的なイメージの獲得を、すべて洗い流していかねばならないだろう。

それは“表相の中和”と呼ばれることの意識と関係があると考える。

表相の中和→表相の対化の顕在化。

ここで意識が覚醒する。

 

●表相の中和 人間の最終構成から顕在化に入るところに生じる。人間に表相の働きを失わさせること。すなわち、表相の顕在化を起こさせ表象化をやめさせてしまうこと。表相の対化を作り出すための上次元の調整作用。

(上次元の調整とは、受動性の枠内。調整⇔覚醒)

●表相の対化 方向性の対化。自己と他者の関係を作り出しているものの本質。点の対化。顕在化において生まれる最初のカタチ。

 

ここで“顕在化”に入る。“カタチ”が獲得される。

人間と人間の反対の関係をめぐる“形質”、つまり、外的対象と内的対象との統合の場から、対象を離れた“モノ自体”としての“カタチ”が獲得される。
人間と人間の反対における“点と点因”との、主観性と客観性とをめぐる“対象化の意識”の攻防から、

“点の対化”の顕在化が、“ヒト”における意識の中にカタチとしてもたらされる。