蛇の多様な形態としてのシンボリズムは、紙のない時代の幾何学ではなかったか?

民族学者の吉野裕子よしのひろこ)さんの研究、とくに蛇~蛇神の研究の面白さ。

蛇にはネガティブなイメージとして、なにかにからみつく、まとわりつく、など、「執着」のイメージがある。そうした蛇が、羽を生やしたり、あるいは脱皮のニュアンスを取ると、意味が変わってくる。

吉野裕子さんによれば、ケガレとは「毛離(か)れ」であり、毛とは皮と同じ意味で、本来は蛇の脱皮現象にまつわるハレバレとした感覚を言うものであるという。逆にいえば、ケガレとは、脱皮前にウロコががさついてくることのプロセスとして重要だということ。)

蛇は一般に「エーテル体」というものの象徴、とする説がある(Wikipedia)。また、人智学では、エーテル体は、生命的なエネルギーの流れであったり、あるいは思考であったりするそうだ。生命の流れが思考に変わったり、逆に思考が生命の流れに変わったりするというのは、相互の変換性のことであり、これは要するに「観察力」ということだろう。

観察という行為をひとつの意識の空間の次元とみなすことで、そのような相互の変換が可能になるということ。それに対し、単純な思考、・・・つまり、「◯◯についての思考」であれば、そのような能力はもたない。「◯◯について」というこだわり、執着から解放された次元が「観察」そのものの次元であろう。

世界が始まった時、まず最初に圧倒的な叡智の存在がそこに在って、それを伝えようとする工夫が為されたのだろう。そしてその教えの在り方というものが、思考であるとともに、生命の力であるからこそ、歴史を超えて伝承されたのだと思う。たんなる知識であれば、用が済めば捨てられてしまう。それは対象的な知識であるに過ぎない。

生命の流れや力であるから、それを利用しようと思う。そしてそれを扱う時にまた思考となり、知恵を得ることにもなる。また逆に、思考することが、生命の力となる。そのような、脱皮的な、本体と皮との二重性という特性をもつ。

これは、ヌーソロジーにおいて、思考というものが、力や運動として生命的な力を帯び、そのことが、観察する精神というひとつの空間で為されるのだ、という言い方とよく似ている。

蛇のシンボリズムは、「古い知恵だ」という特徴がある。それは人間の無意識や情動の流れとして、長い歴史をもっている。

そのような蛇神の教えや経験が、ヌーソロジー流の、新しい幾何学のフォーマットを借りてよみがえってくる。そして斬新される。そういう流れがあるのではないだろうか。

「蛇を象徴する型紋のパターン」『蛇 日本の蛇信仰/吉野裕子
「蛇神のたたずまう垂直的な時間」『日本人の死生観/吉野裕子

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