手のひらで陰陽を読む

陰陽の話ですが、では具体的にどういうことなのか、という点に関して。

まず、“体表”には陰陽があるということ。背中側が陽、腹側が陰。手だと、触覚的に敏感なのは手の腹側ですが、“モノの対象化”には、その部分を使う。おもに、指の腹、ですね。先端部が過敏である。

体表におけるケイラクの陰陽を見る場合には、おそらくは、手の腹の逆、手の背部を使っているのではないかと考えることもできるが、より正確には、「手の腹=陰、手の背=陽」という陰陽の“比率”でもって、判断しているということである。

この、腹と背中の陰陽の比率というものは、おそらくは、感覚的に敏感な手の腹側ではなく、手の背部が先導しているものではないかとあてをつけるわけで、より明解にいえば、“空間に接触している”という性格が、手の背部により現れているということ。

体表ケイラクを観察する場合に、手掌を使いますが、これは、手掌で陰陽の比率を判断しています。おおまかには、扇の表裏のように使うが、より細かくは、それぞれの指の陰陽の、それぞれの指の相互の関係性でもって、自然と“手や指の形、位置”が決まり、それで判断する。

こういう感覚が出てくると、例えば、修験道のお祭りなど行くと、行者が火渡りなどしていますが、お祭りだから、霊的な行者も降りてきているので、それに感応して、自分の指が次々に“印を結ぶ”といった神秘現象が出ることがある。

独特の印の形は、そのカタチそのものが意味があるというよりも、手のひらの陰陽(腹と背中)、そして指の腹と背中が、それぞれ独特の比率を構成し、ある種の陰陽の構成体のような造形になっているということ。シンボル(表象)というよりも、メカニズム(構造)があるということだと思います。

それはいいとして、ここが重要ですが、そのようにして、相手の体表のケイラクの陰陽を、手で読み取ろうとした場合に、それが“端から見る”と、あたかも「手のひらを相手に当ててなにかをしようとしている」「手のひらからエネルギーを放射している」というふうに見える、ということ。

伝統気功であれば伝統気功で、“手掌からの氣エネルギーの放射”、つまり“外気功(がいきこう)”現象は無いと言われています。つまり、現代の中国が近代化や経済市場化を迎えた際に、“気功”という新興宗教が生じたのですが、その時に、伝統的な人たちは“外気功”を否定しましたが、そうでない者たちがその誤った解釈を放置したということ。

これは、そういうものなのです。一見すると、なにかわけの分からないことを言ったり、やったりした場合に、必ず一定数の人たちが、そこに独自に意味を見いだして、「それは手からエネルギーが出てますよね、自分も感じます」というふうに、言う。そして、わけのわからないことをやっている当の人物は、そのような妄想を放置するか、あるいは「その通りです」などと言うわけです。

いや、実際には、手のひらからの生命エネルギーの放射現象はあるのですが、それがいわゆる“特異効能”、つまり“超能力気功”というサイキック的な能力であるために、やる当人がひじょうに疲労する。それを続けていると、精神がやられるというのが定番だと聞くわけです。(サイキック現象は、Nの言う“内心”現象に相当する。)

気功、とくに外気功は、ある種の新興宗教として、今では本場の中国でも流行らなくなっているそうですが、その一連のイメージが今でも残っているのが日本の“アニメ業界”ですね。マンガの「You are already dead」のせりふで有名なあれとか、ドラゴンボールシリーズとかで、固定したイメージ。

海外での日本アニメの子供からの人気は高いと思われますが、一般的に、とくにそのような部分では、“まがまがしいもの”だという印象を持たれているのではないでしょうか?