“氣”を考える (その2)
国内の気功研究者のルーツが、いわゆる学生運動、全共闘経由というケースがある。
全共闘は、時代現象として今でも謎が多いらしく、政治~左翼というか、土着的な、民族的な運動として捉えた方がよいという話もあるらしい。
自分は1963年生まれだが、バイトとかすると、社長なんかが、全共闘世代だったりする。
自分も、東京時代のバイト時代、上の社長が早稲田の黒ヘルというのをやっていた人で、今もって黒ヘルのなんたるかはよく分からず、あまり興味もないが、仕事の内容は政治にまったく関係のないふつうのフリーターである。また社長自身、政治活動とかはすでにやっていない。怒られるかもしれないが、お祭りのようなものだったのではないかと想像する。
上の世代のエネルギーが政治という場で屈折してしまったことを学習してか、権威的ではなく、諧謔、パロディ精神を軸にする、という世代ではないのだろうか。
これは、政治の方の人がその後でそっちの方(パロディ)に流れていって、その表現を、自分らの世代が学習していったという部分もあるのだろう。いわゆるサブカルというやつだ。
すなわち、権威に対する直接批判ではなく、諧謔性において意思表示すること。
そういう意味では、自分らの世代の表現者の代表の一人が、オーケンということになる。
インディーズロックの世界にあって、なお、そのマイナー世界の、権威(?)をおちょくって、モモヨ→モヨコとするなど、ある種徹底したものがあった(笑)
いわゆる「シラケ世代」というやつ。
自分の友だちのバンドがたまたまナゴムに関わっていたこともあって、当時のことをいろいろ思い出した。『さようなら人類』の「たま」もナゴムだということだった。
『宝島』のムック本なんかで、気功の特集が多く、あれを読んで勉強した人も多かったと思う。実際に、当時の執筆陣に実力者が多いということである。
ああした出版物も、そういう時代状況の中にあったということになる。