見ることの拡張により顕わとなった知覚の多形性

最近、つとめて雑音の多いSNS的な文章環境から、本、読書にシフトしている。
 
風呂で読むのに、よれてもいい、買ってはみたが大したこともない本を、と思い、本棚から『聖地の想像力』をチョイスした。
 
内容は完全に忘れており、パラパラしているとこんな文章につきあたる。
 
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カスタネダドンファンは、夢と現実という区分において、現実の特権性を認めていない。つまり、夢と現実を区別していない。
 
ロランバルトの引用。
 
「16世紀ヨーロッパにおいて人間の五感の階層性の作り直しがあった」。聴覚から視覚へと、優先順位が変わった。
 
教会やお寺で、牧師や僧侶のありがたい話を聞くことの重要性。その意味合いに変化が生じた、ということだろう。
 
「見るといっても、ただ現実を見るだけでなく、夢を見る、幻を見る、白昼夢を見る、別の現実を見る・・・実はどれがほんとうに優勢であるかは分からない。」
 
その意味で、「見ること」の拡張は、ある種の場所的な境界侵犯なのかね。
 
今日では広く、バーチャルうんぬんということになってもいる。
 
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「哲学者のメルロポンティは、「思考されたものも、見えるものからわずかに離れただけのものにすぎない」と言う。しかしこの場合の「見える」は、通常のそれに限定されない。」
 
ポンティ曰く、
 
ルネサンスの遠近法は、文化的な事象としてある。知覚そのものは本来、多形、ポリモーフィック(polymorphe)なのである。多形としての知覚がユークリッド的になるのは、それが体系の導きに身をゆだねることによる。」
 
「そこでこのような問いが生じる。このように文化によって形成される知覚のあり方から、「生の」あるいは「野性の」知覚に、どのようにして回帰できるのだろうか? この内部形成(information)の本質はなんだろうか? 文化的に形成されてきたこのような知覚のあり方を巻き戻していって、現象的なものへ、『垂直の』世界へ、経験される“ままのもの”へと復帰するという場合に、どんなアプローチによったらよいのだろうか?」。
 
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見えることがら、見え姿とは、世界、つまり場所の、書き割りであるのだろう。
 
カメラは、要するに、世界のフレーミングをやる。
 
さまざまな領域にあふれ、それぞれの場所を侵犯した「見る」は、それらを解体したということなのだろう。
 
知覚における文化的な統制、すなわち共通感覚=コモンセンスのあり方が、大きくゆらいだ、ということ。
 
・・・「聖地」は、「場所」か「人物(神)」かに、関係するという。
 
聖地を聖地とみなすそのような様式が、侵犯されているのが現代のあり方なのだろう。
 
その時、本来の、多形としての知覚があらわになるだろうが、その奔放な流れにただ身をまかすのか、あるいはなんらかの能動的なアプローチが共有されるのか。
 
p.s.
 
知覚論というと、シュタイナーのものが有名だとして、どうなのだろう。
 
印刷媒体、せいぜい、ラジオの時代。蒸気機関車が速すぎて体に悪い、なんて文章がある。そんな時代の話。
 
自分の世代はいわゆる“メディア論”全盛の時代で、その背景には、コンピューターやパソコンの普及があった。
 
メディア論を前提として知覚論をやるか、そうでないか。
 
そのような思考する環境の前提の違いは大きい。
 
その意味で、シュタイナーの知覚論もまた、時代なりの制約の中にあるのだろうと予測する。
 
(p.74にマクルーハンの『グーテンベルグの銀河系』(1971年)というのが紹介されている。)