ただ今脱皮中
脱皮が本格化している気配だ。
本日は、仕事、休憩時間問わず、顔面ストレッチを続けていた。
我ながら奇矯であり、営業の外回りなどやっておればとても勤まらない。
ヌーソロジーとも関連のある、博多の気功の会の東京WSに出席したおり、「顔面ケイラク」の話が出ていた。顔面ヨガならぬ顔面気功とのこと。
全身ケイラクが、顔面に収束しており、それがさらに、目に収束している。
歌舞伎の「見得を切る」は、からだ全体の氣エネルギーを、顔面に束ねて放射する“顔面発功”の所作であり、役者の全身にみなぎる氣の力は、表情、そして目の強さに表れることになる。
仕事のあと疲れて、そのまま寝てしまい、先ほど起きて気づいたのは、「モノの前に自分がいる」という感覚が、無いか、きわめて薄いという感覚。
「前」とは、モノの手前ということでなく、前そのものなのだ、奥行きに距離がないのだ、というのは、ヌーソロジーの常套句だが、「ああこれなんだな」という印象。
図式による説明であるにとどまらず、確たる体感として生じることであり、たぶんこれは、素の状態としての「前」であり、子供のころの感覚なのだろう。
(※あるいは、PCモニターの前に居すぎて、電磁波で顔が懲りまくっていたので、とつぜん、顔面ほぐしが始まったのか。しかし、それ以前の、三次元空間的な意識のあり方の中で積み重なった緊張が、顔面の凝りを作ってもいるのではないか。厚顔ということ。)
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先に紹介したように、蛇の脱皮というのは、頭から裂ける。蛇の象徴学では、この点が重要である。
祭りは「待ち」に通じているらしく、祭りのその時を待つとき、地面に破れた笠を置く習慣があったらしい。(昔、祭りは日時が特定されていなかったそうだ。出産のような感覚だ。)
祭りというものが、「時間の脱皮現象」のようなものとして捉えられていたのだろう。
例の、「爬虫類人(レプテリアン)」だが、あれは蛇というかトカゲだが、人間がヒトに成る時、それは蛇になることだとして、レプテリアンを連想する。
ネットの書き込みに、レプテリアンというのを信じておらず、それはなにか、実像がゆがんで現れた存在ではなかろうか、との内容があった。
古代人が考えたように、人間は、人間を創り出した存在、「祖霊としての蛇」へと帰還していく。時間を遡っていく。確かに、アマテラスは黄泉国に帰った時、蛇の姿になっている。
ヒト=蛇に変身する、脱皮することだとして、その場所に帰還するためには、「カタチをもたなければならない」という。
精神の進化にカタチをもたせねばならない。
ヌーソロジーに「形散」という言葉が出てくる。
-引用-
●形散(けいさん)
カタチを崩壊させてしまう、という意味。形散が起こると共性を持つことができない。エゴイズムそのものと化した意識。自我を確立できていない意識の状態。 人間の外面の意識が方向を失ってしまうことを意味する。人間の意識において精神の方向性が全く見えていない状態。自己側の意識が人間の内面側から他者の次 元へと入ってしまうこと。人間の内面の意識のさらに内面に生み出されるものなので悪い方向性を持っている。対化の外面への逆方向からの交差。いわゆるオリオンの暗黒面。宇宙空間においてはブラックホールとして射影されている。
-引用-
カタチ、すなわち、精神の進化のために有効な幾何学を学び取ること。
幾何学が、空間を直接にとらえる言語であるということだろう。
対象としての空間を記述するというよりも、空間そのものをダイレクトに扱うことができる。
この操作を身につけないと、進化が崩れる、というニュアンスである。
そして、そのことにより「共性」をもつ。
共性とは、「愛」のニュアンスに近いことがわかる。
影響を及ぼしているのは、Ω4としての「金星」であるという。
「共性する力がすべて顕在化として表されたときに(最終構成の働き)、交替化が開始される」。
精神の進化というものがカタチをもっていて、そのひとつが「方向性」「方向覚醒」ということなわけで、その初めは正4面体、その高さ方向である。
-引用-
●体表(たいひょう)
人間の意識において最初に顕在化する4次元性のこと。最小精神ψ3が持つ負荷。正四面体の高さのイデアに対応する。正四面体とは一つのモノの認識のカタチ(モノとは正四面体に中接する正八面体)。
-引用-
霊と物質(肉体)の結合は難しい。
そもそもが奇跡的であるのだという。
そのふたつの結合の界面に、「体表」があり、それを「最小精神ψ3の負荷=正四面体の高さ」として、意識の中にカタチとして持たせることで、その奇跡的結合部分を、逆方向から観察することになるのだと思う。
そのカタチがまず「体表」と定義されるというのは、まさに「脱皮」のニュアンスである。
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蛇のシンボリズムにおいて重要なのは正三角形、そして円柱である。
円柱は、古代、紙のない時代の、正四面体の代用であったかもしれない。
山が蛇にたとえられ(とぐろ巻き)、山の神が蛇であるとともに、蛇の脱皮が山の噴火になぞらえられる。
「噴火」を検索してみた。
-引用-
火山の噴火とは?
精神の内面性が見えてきているということです。
-引用-
(※「精神の内面」https://goo.gl/tMGCzj)
結論的には、「蛇のシンボリズム」「蛇神の象徴学」といったものが、古代の神聖幾何学ではないかとの印象を強くする。
(※形散…この覚醒をみる時代に、しかし、カタチを失っていく人間意識のあり方を、レプティリアンと名指すのかもしれない。蛇の両義性。二重性。脱皮直後の蛇は目をみはるように美しく、虹にたとえられる一方、脱皮直前の蛇はガサガサとみにくく、まったく動きが鈍い。うろうろとさまよい、枝に体をこすりつけては、それでもぬげずに悪戦苦闘する。しつように枝にからみつく姿は人間の心の執着の象徴であるともみなされた。なかんずく、目のウロコの落ちない蛇はみじめでり、目の脱皮に何度か失敗すると、致命的な影響を受けて死に到ることもあるという。ヌーソロジーの言う通り、「ヤマタノオロチ」とは、そんな、何度かの脱皮を経過しつつも、そのことごとくに失敗し、“カタチ”をもてなかった蛇の喩えなのだろう。)
画像:
・全身ケイラクと顔面ケイラク
・ヨガのページより。蛇と頭部の親和性。
・頭に蛇をのせた古代の巫女の土偶。(長野県、八ヶ岳古墳)