『微細エネルギー論』を読む (その1)

『微細エネルギー論』kindle版をぺらぺらめくっている。

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霊性の哲学を再び現在に回復するためには、オッカムによってなされた「知のコペルニクス的転回」を見据え、そこで成立した、近代知としての「自明の前提」をあぶり出し、その自明性に徹底的な疑いを突きつけ、再びパラダイムの転回を企図するという道を、避けることはできない。これが本論文の主張するところである。
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近代的知性のあり方の基礎を完成させたカントの以前に、このオッカムがいるという。

唯名論」と言うらしい。事物の霊的な背景への考察、つまり形而上学を廃した思考スタイル。事物の霊的な背景を廃し、裸の個としての事物を、物質を、人間が意味付け、名づけ、その中でのみもっぱら概念操作するということ。(これは記号論に行き着くらしい。)

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デカルトの方法的懐疑もその線上にある。「われわれは宇宙の深みを知りうるか」という問いではなく、「われわれは何を確実に知ることができるのか」という問いが、哲学の自己規定となる。「宇宙の深み」などという事象は、証明不可能のことがらである以上、学知の領域には入りえず、信仰の問題として捨象される。これが近代知の体制である。
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すなわち、事物がそこにあるということには、何らかの「奥」とも言うべき神秘の領域があるということである。それはたとえば芭蕉が「松のことは松に習え」と言った時に感じていた、事物の奥深い相との交流ということでもあろう。そこに「ある」という事態の中に「無限」との交流を見るという感性を捨て去ったところに、オッカムの転回があったのではないか、ということが、谷・稲垣に共通する問題意識である。
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また、坂部恵はこれに関して、唯名論と対立する実在論 (レアリスムス)の立場とは、「個的なものを、元来非確定で、したがって (ここが肝心のところですが)汲み尽くしえない豊かさをもち普遍者や存在をいわば分有するものとみなす」というものだと明言する。つまり実在論とは「深み」を志向する哲学なのであり、唯名論は世界から深みを剥奪する哲学である。
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もちろん、オッカムによる知のコペルニクス的転回を「なかったこと」にできるわけではない。しかし私たちは、この唯名論パラダイムや、感覚的経験に根拠を置く明証性への要求などといったゲ ームのル ールを自明のものとみなす拘束からは自由になることができるであろう。そうして、もう一度、「あるものがあるものである」ことは、何か、ある「奥」の次元から、私たちに贈与されてきている何かではないか、という問いを発してみることも可能ではなかろうか。これは同時に、人間精神は、無限へ向かって開かれている、と確認することでもある。つまり、超越の可能性を私たちは有している、ということである。そして、知性もまた、無限なるものとの交流によって「高められたもの」となる可能性を有する、ということでもある。これらのパラダイムは、すべて、明証性への過度の要求によって否定されてしまった、伝統哲学本来の要素である。つまり私たちは宇宙から何事かを「受け取り」、それを表現へもたらすという能力を有する。それは私たちが造るものではあるが、同時に、宇宙が私たちの精神を媒介として創造活動をなしていることでもある。このように考えてくると、稲垣良典が主張するように、現在において再び「神学」の意義を問うという可能性も見えてくる。それは人間の知性が「魂の感覚」とでも言うべき、より深い経験世界を知ることにより深化していくことの可能性に根拠を持っている。
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ただし、こうした神学を、キリスト教神学に限定してとらえる必要性も、もはやないように思える。私たちに必要なものは、これまでの宗教的な枠組に一切とらわれることなく、完全に独立した視座から、これまでの霊性思想の歴史をふり返り、現在において再び「宇宙根源」や魂といった形而上学的問題に正面から取り組む学知の立場である。これを私は、「普遍神学」と命名したいのである。それは、現在における霊性哲学のありようである。これまでの日本における宗教哲学においては、宇宙根源を絶対無の如きものとして、これを否定神学的にとらえる見方は、すでにある程度定着しているものと思われる。しかし、ここでなおも不足しているのは、イデア論的な視座ではないだろうか。
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なぜ、事物が人間の観念の中、意味のラベルの中に閉じ込められてしまったのか。

ヌーソロジーはこのように説明する。

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●表相の等化(ひょうそうのとうか)

自己側の表相と他者側の表相*が等化されるということ。真実の人間の意識がヒトの総体の次元に進化するとき、定質の発露を作り出す精神作用となる。人間の内面に形質の等化を作り出す作用。他者の表相をユークリッド的線として見えさせ、その線を自己側にもコピーさせるということ。結果的に人間の位置を三次元の中に投げ込む契機を作り出すことになる。人間の意識に客観性を作り出させる原因となるもの。モノが見る者と見られるものに完全に分離し、見る者としての空間が見られるものとしての空間を失ってしまうこと。人間の意識が進化の方向を見失ってしまうこと。人間が存在しなくても世界が存在するという考え方を人間自身が持ってしまうこと。精神の内面が顕在化を起こすところ。近代的思考の誕生。
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簡略化すると、人間の上位存在である「真実の人間」が、進化する時に、定質を発露するが、これが「人間の内面」に「形質の等化」を作り出すことが、近代的思考の原因となる。

「形質の等化」は「表相の等化」と似たニュアンスなのだろう。

ものごとを、一般的に、客観的に、思考する傾向。これに名前や値段をふる傾向。

宇宙の進化がコマを進めたかたちではあるものの、人間の意識としては「進化の方向を見失ってしまっている状態」である。

よって、ここから「脱出」することが必要になるが、それは、近代を帳消しにすることではなく、それを裏側からめくり上げること、反転させることが必要となる、ということ。

その契機が、物理学における「量子論的パラドクス」である、とのこと。

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英語のspiritの語源はラテン語「スピリトゥス」spiritusにある。これは、「息」という意味に由来しており、inspirationなども同じ語根であることは知っている人も多いだろう。
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これは、「おこ」の語義に似ている。

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・おこる〔起・興〕自動詞「起く」の派生形。「行ふ」と同根。起きた姿勢で行為することをいう。

・おこなふ〔行・挙〕 身を起こして行動する。元気にことを為すことを言う。「おこ」は「起(おこ)る」「興(おこ)る」と同根。また「息(いき)」の母音交替形であるから、活動的にたちはたらく意である。「おこなひ」はその名詞形。(字訓/白川静

「おこ」は「息」の母音交替形で、息をはずませ、気力を振い起して、ことにとりかかることをいう。漢字の「おこなふ」と訓する字が、行くこと、前進するという実践的行為的な意味をもつものが多いのに対して、国語は深く息づき、気息をはげますという感性的な性格の語を基調としている。
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この「おこ-息」が、「おき(沖)」や「おく(奥)」に活用していく、という点も趣きが深い。

おこないの立ち上がり部分が、沖や奥といった無限遠概念とつながっている。

以前、「オコツト」の「オコ」が「怠け者」の意味があるとし、「ツ」が助詞で、「ト」が門、「怠け者の門」との解釈があった。

この解釈は、むしろ「オコ」の逆である。

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・おこたる〔怠・倦〕 「おこ」は「行ふ」「起る」と同根。継続的になされている行為が、ある段階から低下してくることをいう。「起る」「興る」に対して、逆の方向にあること。
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