ヒトの意識におけるカタチが、人間の反対における形質となって、最終構成を起こしている

本日、朝起きて、ベッドに座りながらスマホ入力して、“かがい”と“原初舞踏”について考えていた。

この場合は、原初舞踏の稽古場で為されている“床稽古”のことである。

・・・・・・

“かがい”というのは一般的には、盆踊りなども関係し、集団での性的な乱交的なものとして論じられる傾向がある。

その意味では、特定の舞踏の稽古と、かがいを結びつけるというのは誤解を招くにきまっているので、ほんとうはやめた方がいいのかもしれない(笑)

(古代の儀礼や習俗は、現代人がイメージする場合に、ほとんど的を得ない。現代の感性でそれを解釈するからである。なかんずく“古代の性”に関する知見は、ほとんどそのパターンとなる。)

●性欲 総体的な力の元となるもの。変換作用を起こす力の元。核質(男性の性欲)と反核質(女性の性欲)。

“変換作用”は、“人間の最終構成”と関係がある。そして、それが起きてきた時に、“対化を顕在化”させるのが、変換作用で、顕在化した対化の関係性をめぐり、等化作用と中和作用が作用する。(等化と中和は対化として働く。)

●変換作用(へんかんさよう) 人間の最終構成が生まれたときに、対化を顕在化させ、次元の方向性をもとに戻し意識を一度相殺するための等化作用のこと。定質と性質の交替化を作り出すための等化と中和作用のことをいう。

●人間の最終構成 核質が中和され…物質概念の消滅…、付帯質の内面が顕在化を起こすということ。次元における個体の働きが終了するということ。脱-表象化の意識が芽生え始 めるということ。人間の意識がヒトの意識への進化のための準備を始めるということ。人間が反対を見い出し変換人化するということ。

“核質の中和”とあるが、“核質”とは、物質概念による意識の構成のことである。“物質”というと、対象化された客観物であるが、日本語の“モノ”は、よりびみょうなニュアンスをもつ。

これは、日本人は、モノをモノとして、直接的に、直観的にその本質を把握する、なんらかの能力をもつからで、これは、日本人における“呪術性”と言われることもある。(呪術性とは誤解されやすい言葉だが、確かに日本人にはそれがあると言われる。)

冥王星=PL”の頭文字ともなった、科学者~天文学者のパーシヴァルローウェルは、来日し、日本人の文化を調査した。その霊性におけるモノの特殊性は独特である。

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https://anbakoyawa.exblog.jp/20155268/

“日本人とは何ですか

今の人間の核質です。位置の転換はほとんどがこの核質によって行われています。

交信記録 19900724”


“核質の中和”とあるのは、そのような核質の働き…3次元的な対象化された物質的概念…を、中和、つまり、なんらかのかたちで無効化する、というような話だろう。それは当然、“今の人間の核質”であるところの、“日本人”の意識というものが強く関係があるということになる。

西洋人の意識は、物質概念の中にある。身体すら、物質として捉えている。日本人は、“転換位置”としての“核質の中和”の働きをもつために、核質に対するなんらかの“意識の特異点”のようなものを持っていると考えられる。

私の場合はそのことを、“精神”の働きであるよりも、“身体”ということに関した何かはないかと把握し、超心点~表相の中和~体表、といったヌースの用語につなげて考えている。

・・・・・・

“変換”の反映が“転換”で、この二つは“対化”している。

つまり、等化作用と中和作用の関係と同じである。

変換作用があれば、その反映として、即座に転換作用が起こるはずである。反映とは、ある種の宇宙法則としての自動性によるものであるからして。


●転換作用 顕在化した変換作用の反映。位置の転換、力の転換を総合した言い方。

・位置の転換 ヒトの外面として作用しているカタチを顕在化させること。形質を作り出すこと。

・力の転換 ヒトの内面そのものの次元に意識が進化し、その反映を作り出すこと。意識の相殺と同じ意味。


“顕在化した変換作用”とあるのは、潜在性においても、変換作用があるということである。これは、人間の霊能力などと言われている。

宗教や修行的な霊能力開発において、“性的な禁欲”と、それによる性エネルギーの変換作用への活用が為されるのは普通ではないだろうか。

修験道などで、山の神が女性であり、女人禁制であるとされるのは、修行者たちが原則的には、性的な禁欲をなにほどかやっているからだろう。

●性欲 総体的な力の元となるもの。変換作用を起こす力の元。核質(男性の性欲)と反核質(女性の性欲)。

性の欲望が、変換作用を起こす力の元となるわけである。それは、性欲の変質を意味しているだろう。

今の日本社会では、恋愛レス~セックスレスが広がりつつある。これは、“最終構成”という時代に際するところの、性欲の変質を意味しているのではないだろうか。

日本人に“転換位置”としての働きがあることとも関係しているのかもしれない。(日本の文化では、性欲は肯定的にみなされてきた。身体と性を肯定し、その欲望が、広く、さまざまなかたちで昇華される文化のありようが展開されている。西洋ではこれは魔術的な営みとみなされる。)

…それはともかく、

“位置の転換”が、“ヒトの外面におけるカタチの顕在化”を促し、そのことが“形質”を作り出しているという点に注目する必要がある。

“人間の最終構成”の説明に、“人間が反対を見い出し変換人化するということ”というのがあったが、これは“人間の反対”のことである。

●人間の反対 形質を持つもの。モノの中にいるもう一方の自分を人間が見いだすときに生まれる進化の方向性の力。形質が生み出されることによって付帯質の外面から付帯質の内面へと次元が変わり表相が中和され、人間の最終構成が生まれる。

ここはとても重要な部分だと思う。

変換作用の反映として…性欲の変質がそれを促す…転換作用が引き起こるが、その転換作用では、ヒトの外面において作られる“カタチ”が“形質”を作る。つまり、“ヒト→人間の反対”のルートで、“カタチ→形質”という“次元降下”が為されるということである。

そして、そのように降下した“形質”が、再び、人間の反対として人間の意識に関与することで、そこである種の“意識の錬金術”のようなものが起きて…身体的な領域である…

そのことが、再度、“最終構成”を促すという、循環性の回路になっているということが分かる。

その意味では、以下の図のように、形式化されているというのは、“精神の観察位置”という構造論的なメールマークであって、

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人間の意識や身体における“生成”現象としての、変換や転換は、人間の反対→最終構成→顕在化→変換人→ヒトという流れの中で、常に循環しているということになる。

…変換人による変換作用が成し遂げられ、人間の意識の成分が、すっかりヒトの成分に変換されるまでの間だろう。

(幅的な時間が無くなっていく世界なのだから、直線的な時間がタイムスケジュールとして客観的にある、ということが少しおかしい。もっと内的な、動的な営みではないだろうか。あるいは、個的なのではないだろうか。霊性の開示とは、個体性のことである。)

人間の意識の成分のうち、1/3が、変換に使われ、おそらく、その1/3が、転換に使われる。つまり、変換を引き起こす原動力として、人間の意識や、身体、あるいは性欲といったものが使われるのだろう。

そして残り1/3が、変換にも転換にも属さない、意識の成分となる。これは、“精神的虚無の領域”と言われ、コンピューター的な仮想現実空間に関係していると言われている。つまり、バーチャリティーである。

その場所は、間接的であり、生命とは関わりをもっていない。よって、変換作用がまったく生じる余地がない。

祝福されない恋愛について

人間の最終構成と、ロックムーブメントが関係しているのかな、というのは考えた人も多いと思う。

その中で、パンクロックというのが起きてくるが、あれがなんだったのか。

単なる“反社会性”や“脱社会性”ではなかろう、と。


ひとつは、“直接性”というキーワードである。

メディアが発達してきて、直接性というものが疎外されてきたので、それを回復させるということか。

弾いているギターを壊す、というのは、道具の破壊としての“直接性”の衝動である。

また、セックスというキーワードも、関係性における直接性と関係がある。

“暴力”もそうだし、また“視覚的インパクト”もそうである。


ヌースの概念の、“変換作用”と“性欲”とに関係を調べたことで、いろいろと分かったことがある。

パンクのアイコンはシドヴィシャスであり、まあ、椎名林檎の歌に出てくるシドという名前であるとか、あるいは、シド&ナンシー的な、何か。

…国内だと“真夜中のカーニバル”という絶望的な青春映画があった…

あれはつまるところ、“共同体に祝福されない恋愛”というものではないだろうか。

恋愛、そして結婚は、共同体に祝福されるべきものだろう。

また、モテる男というのは、要するに、社会性の高い、共同体的な匂いのする男子である。

今、バンドマンがもてるとしたら、彼らが、疑似共同体としてのマスメディアの匂いをただよわせているからだろう。

そこに“共同体に祝福される恋愛~性”というあり方が潜在しているということ。


ところが、“顕在化”にあっては、おそらく、“性欲”、つまり性に向かう欲望のあり方が、“方向性を変えて”しまうのである。

男女の肉体的な性という次元に“反映”されている“妙性質の対化”は、“共性”に結びついているということだった。

また、共性とは、“付帯質の外面”としての、私たちの、外的な意識における社会性の領域であった。

そのあり方が“方向性”を変えるとしたら、それは、外的な、性をめぐる表象性が…それはほんとうにありとあらゆる事柄だろうが…内的な方向、そして、その内的な意識の方向性が先手を取りつつ、外的な方向と統合されるという、そのような意識の場としての“付帯質の内面”に向かうということである。


社会的な性、男女の問題を扱っている代表的な論客が、社会学者の宮台氏だろう。

氏のキーワードが、共同体、共同体的身体、そして共通感覚、といったものである。

性が、その場の中心にあるので、逆に、性をトリガーにして、なにがしか、共同性を回復する、というコンセプトであるが、

もちろんそれは大きな共同体ということではない。

メディアの俎上には、いまやほとんど乗ってこない、隠された、小さな、しかしホンモノの共同体があると言う。

正直なところ、そんなものがあるのか、疑問であったし、宮台先生のアドバイスを聞いて、他者コミュニケーションへと“ダイブ”したあかつきに、そのようなホンモノの共同体の場と出会うことができるのか、分からないが、

ヌーソロジー的には、顕在化においては、“共性”が“重性”に変わる、ということのようだ。


●共性(きょうせい) 付帯質の外面における意識状態のすべて。対化の外面におけるすべての次元交差が逆性を作り出してくる状態。似た言葉に重性がある。その違いは、次元を交差することができるか否か。表相が次元を交差することができるのが重性、表相が次元を交差できないものが共性。

共性は対化の外面の方向、重性は対化の内面の方向への力を送りだす。惑星としては共性が金星、重性が土星


次元交差~表相の次元交差の、詳細な具体性はよく分からないが、おそらく、これは“顕在化”の領域だろうと思う。

おそらく、“ヒトの意識~ヒトの表相”と関係がある。


●共性(きょうせい) 付帯質が外面を持ったときにうまれる相対的関係として働く二つの性質(性質と反性質)。形散。同化によって生まれる付帯質の観察次元。形質における中和の働きを完全なものに変えること。

次元の交差を別のものに生みださせようとする状態。対化における性質。重性と共性の違いは、次元を交差することができるか否か。表相が次元を交差することができるのが重性、表相が次元を交差できずに内面性を作り出すものが共性。働きとしては同じもの。


“形散”とは、“形質”が無い、のニュアンスだという。

形質とは、外部認識を、内部認識とに統合させようとする、内的な図式のようなもの…自分はいわゆる“身体図式”、つまり内的な身体感覚としての形のようなもの…と関係していると考えているが…そういう、内的な方向性をもとうとせず、ひたすら、外部的な認識の方で、とりまとまろうとする共同性のあり方。

これは、要するに、国家や、マスメディアという方向を、人間という存在が、もともともっているということである。

Iさんは、国家や貨幣の幻想性を超えて、それが“精神倒錯”であることを言っていたが…おそらくドゥルーズの影響…そのような指向性をもともともっているのが人間なのであり、古代にはや、古代国家がある。

その意味では、“前古代”といった設定は、ヌーソロジー的に考えれば、それは人間の時代ではなく、それ以前の“変換期”に対応しているということになる。(人間の時代は“調整期。それに対するものが“覚醒期”。調整→覚醒の間に変換期がある。)


人間が性に向かおうとする。そして、性が、共同体に動機付けをもたされている。

そしておそらく、その間に、“セックスレス”や“恋愛レス”という、現代的な問題性が引き起こっている。

それはおそらく、従来的なそれが、“外部的な感覚や認識”、つまり“付帯質の外面”に依存しているからだろう。

例えば、実際に、“恋愛映画”というのが機能しなくなっているのではないか。…その逆ベクトルとしての“ボーイズラブ”ものの隆盛など。

そのレベルでの“不能性”が、結果的には、“対象の内的な方向化”をまず招来し、これはある種の、身体の二重化に向かうが…それをやるのは女性であり…女性の身体の襞的な二重性があるということ…そこで、内部性が外部性と統合されて、BL的な指向性が生まれて来ているのかもしれない。

つまり、内部の二重性が、外部の異性という存在と統合されるという現象。

そして、その統合の完全化とは、“脱表象化”を必要とするだろうから、それは表象性の次元ではなく、おそらくは、“舞踏”的ななにかへと、その身体をして向かわせるだろうと予測できる。

そもそもの始まりとしての性のつまづきから、そっちの方向を動機付けされているというのが、現代における、男女の性の困難さとしてあるのではないか、ということになる。

(“重性”とは、従来的な共同体ではない。感覚的には、“聖場”に近いだろう。つまり、霊的な場として、時空を超えて、そこに重なっているということ。)


参考ページ:

“変換作用と人間の性欲の関係”

http://hahaki889.hatenablog.com/entry/2020/02/25/%E5%A4%89%E6%8F%9B%E4%BD%9C%E7%94%A8%E3%81%A8%E4%BA%BA%E9%96%93%E3%81%AE%E6%80%A7%E6%AC%B2%E3%81%AE%E9%96%A2%E4%BF%82

 

変換作用と人間の性欲の関係

●変換作用(へんかんさよう) 人間の最終構成が生まれたときに、対化を顕在化させ、次元の方向性をもとに戻し意識を一度相殺するための等化作用のこと。定質と性質の交替化を作り出すための等化と中和作用のことをいう。


…ここに出てくる、“対化の顕在化”と、“意識の相殺のための等化”という言葉。


“定質と性質の交替化”とあるのは、ヌースの世界観において、構造論として、もっとも基本的な部分。

宇宙的男性原理=定質、宇宙的女性原理=性質、これが、“交替化”する、

宇宙の大きな、まぐ合い、死と再生の循環だと言う。


テキスト版ヌース用語辞典では、“変換作用”の説明に、“性欲”が出てくる。


●性欲 総体的な力の元となるもの。変換作用を起こす力の元。核質(男性の性欲)と反核質(女性の性欲)。


通常、ヌーソロジーで、変換人とか、変換とか言われる時に、“性欲”がどうの、言及されないのではないか(笑)

この“性欲=変換力の力の元”は、“妙性質”に関係するのでは?


● 妙性質(みょうせいしつ) 定質によっても相殺することのできない性質の力の対化。中和に生まれる無限力の対化。上次元から見た人間という存在。妙性質の対化の投影が人間の男と女の肉体。真実の力の無限性。


“変換作用”の説明には、

“人間の最終構成=対化の顕在化”ということと、

“人間の意識を相殺するための等化作用”ということが出てくる。


“性欲=変換力の元”は、“対化の顕在化”に関係するのではないか。

 

…思うに、“生成”に、“中和”が関係し、

“構造”に、“等化”が関係するのではないか。

“顕在化”というのは、等化が先手をとり、中和がその反映として、後手となる構造を取る。

(“潜在化”では、本来、等化が先手を取るべきところを、中和が先手となり…意識構造の転倒…等化作用~精神の働きは、人間の無意識領域にもぐってしまうということ。)


構造として、等化作用が起こることで、その反映として、中和作用が引き起こる。

等化は、精神という上次元であるが、中和は、その反映として、身体~肉体において、引き起こる。下次元である。

そして、中和が、人間の身体に反映されると…下次元への下降…

そこで、“対化の顕在化”が起きる、ということになる。

 

順番としては、

中和→対化の顕在化→対化の等化→等化の反映としての中和

という循環があるということだ。

人間の意識においては、中和→対化の顕在化の部分が見える。

等化作用は見えないわけだ。

これは、“イデア的な作用の純粋領域”であり、高次元空間なので、人間の意識は関与できず、

ただ、“構造”として、幾何学や、数式などの構造として、構造的な照応をやるしかない。構造論的な対称性を照応するということ。

現行のヌーソロジーがやっていることは、これがメインである。

いろんな構造をもってきて、ヌーソロジー本体における構造と照応させる。

 

しかし、“顕在化”に入って、上次元で“等化作用”が起きてきた時に、とうぜんのことながら、その“反映”としての下降現象が起きてくるわけで、

それは、人間の身体~肉体の次元に“反映”されてくるわけだ。

…思うに、

ヌーソロジーが、ある種、“構造論”に終始していたというのは、おそらくは時代的な限界性なども関与しており、

実際的な“変換作用”が始まる“顕在化”の時代である2013年の始まりがおとずれるまで、

実際的には“生成”は起こってこないことから、それまでの間、“構造論”としてある種の“基礎がため”をするしかない事情があったのではないか。

…ここは、“現在のヌーソロジーはまだ骨格しかない”という言い方で表現されていた…

 

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話を“性欲”と“妙性質”に戻すと、

例えば、“妙性質”をめぐる“対化”と“等化”は、このようである。


・妙性質の対化 

中和によって生み出された次元が共性させられたときに生み出された次元。

・妙性質の等化

精神構造におけるすべて(総体)が等化を持ったとき。


中和=つまり等化の反映としての下降があって、そこで“対化”が引き起こる。この場合は、“共性”ということに関係する。

これは、単純に言えば、妙性質が、地上の人間における男女の肉体に反映されると、その具体的な営みが“共性”される、つまり、共同体を作る、ということだろう。


● 妙性質(みょうせいしつ) 定質によっても相殺することのできない性質の力の対化。中和に生まれる無限力の対化。上次元から見た人間という存在。妙性質の対化の投影が人間の男と女の肉体。真実の力の無限性。

●共性(きょうせい) 付帯質の外面における意識状態のすべて。


共性の説明にある“付帯質の外面”は、“外的対象の観察の意識”であるから、通常の、外部的な意識である。

(“付帯質の内面”は、“外部対象と内部対象との等化”。付帯質の外面は、外部対象のみ。)

これは、いわゆる“共通感覚”が“共同体性”を規定しているということに似ている。

(ヌーソロジーがよく、“逆共通感覚”と言うのは、潜在化としての共性からの脱出をニュアンスしていると思われる。)

また、“共性”は、“黄金比”と関係しているとヌーソロジーは言う。

(共性と金星との関係。金星は黄金比イデア。)

黄金比とは、裂開であるから、その裂開性が、肉体次元に閉じているのが、男女の性の営みだということだろう。

ゆえに、共性≒共同体は、それを、“共通感覚”の中に捉えようとする、と考えてよいのではないか。

(昔の日本の共同体では、男女の性の営みが最重要であり、たいせつに、その準備がはかられた。今のように、いい加減ではまったくない。)


・妙性質の対化 

中和によって生み出された次元が共性させられたときに生み出された次元。

・妙性質の等化

精神構造におけるすべて(総体)が等化を持ったとき。


話が戻るが、

中和~対化の顕在化が、生成をめぐり、

等化は、その具体的な生成の次元を、もたらす上次元構造の働きである。

 

…で、ここから本論となるが、

“性欲”が、顕在化における“変換力”の力の元となるわけだから、ここではおそらく、

人間の性の営みに、根本的な“変質”が起こるではないだろうか。

今、日本社会がセックスレスとなり、また、このような肉体や情動の分野で、日本人の社会が世界に先立ち“先行”しているとの観方もある。(社会学者の宮台真司氏。)

いったん、セックスレスとなること。

つまり、従来的な男女の性の営みが、いったん“相殺”される傾向にあることと、“最終構成→顕在化”ということが関係があると思われる。


●性欲 総体的な力の元となるもの。変換作用を起こす力の元。核質(男性の性欲)と反核質(女性の性欲)。

 


…以下、余談。


・妙性質の中和

存在はするが、説明不能


“妙性質=中和に生まれる無限力”であるから、“中和の中和”というものが説明不可能となる、のニュアンスだろう。

つまり、中和の本質としての妙性質が、男女の肉体と性に関係があるとして、そこに深淵があるので、深淵の深淵は説明できない?

“妙性質=定質によっても相殺することのできない性質の力の対化”

というのは、定質の等化作用により、相殺し切れない性質の対化があるということである。

それゆえに、定質と性質、宇宙的男性性と女性性との“対化”があると。

男が観察し切れない、説明し切れない、肉体的な部分が、性としてあり、それが女性の意識の中に反映されているという話は妥当かと思われる。

…“核質=男性の性欲”、“無核質=女性の性欲”の部分も要検討。

 

…“性欲 総体的な力の元となるもの”に関しては、

 

● 総体(そうたい)

脈性を生み出すまでに生み出されたもののすべて。対化の内面と外面にあるものすべて。

・総体の内面(そうたいのないめん)
観察精神が生み出されているところ。

・総体の外面(そうたいのがいめん)
人間の意識が活動を行っているところ。


脈性は水と関係があるらしい。

“対化の内面と外面”は、もっとも巨大な、対化そのものの、構造だろう。

それが、観察精神と、人間の意識との、対化である。

これは、神的なものと、人間との関係だろう。

それが“総体”ということの意味合い。

 

…そのような意味での、“性の力”を、

“脱表象化”としての、意味の外、つまり、共通感覚~共同体の外に置くこと。

おそらくそれが性の本来性のあり方、場所だろうが、

その方向性が、“変換力”が引き起こる“顕在化”における人間の意識と関係があると考えていいと思われる。

…そのためには、従来的な“性”にまつわる一般的なイメージの獲得を、すべて洗い流していかねばならないだろう。

それは“表相の中和”と呼ばれることの意識と関係があると考える。

表相の中和→表相の対化の顕在化。

ここで意識が覚醒する。

 

●表相の中和 人間の最終構成から顕在化に入るところに生じる。人間に表相の働きを失わさせること。すなわち、表相の顕在化を起こさせ表象化をやめさせてしまうこと。表相の対化を作り出すための上次元の調整作用。

(上次元の調整とは、受動性の枠内。調整⇔覚醒)

●表相の対化 方向性の対化。自己と他者の関係を作り出しているものの本質。点の対化。顕在化において生まれる最初のカタチ。

 

ここで“顕在化”に入る。“カタチ”が獲得される。

人間と人間の反対の関係をめぐる“形質”、つまり、外的対象と内的対象との統合の場から、対象を離れた“モノ自体”としての“カタチ”が獲得される。
人間と人間の反対における“点と点因”との、主観性と客観性とをめぐる“対象化の意識”の攻防から、

“点の対化”の顕在化が、“ヒト”における意識の中にカタチとしてもたらされる。

 

オコツトと超心点

一般に言う、神の啓示とか「お告げ」のようなチャンネリングとはヒトから送られてくる交信なのですか。

たぶん、そうだと思いますが、力はちがうと思います。

あなたがたは。

わたしたちは超心点からのものですから、無次元に当たります。

 

真実の人間の内面性とは超心点ですか。

はい。


NOMIは、オリオンから来たという。

では、オコツトはどこから来たのだろうか。

オコツトは、“起こる処”と、古語で読める。

それはある種のゼロの領域ではないだろうか。


そして、ヌーソ○ジーの解釈では、

そのゼロ=重心とは、

上昇と下降との、界面にある。

つまり、変換作用とは、

等化と中和を含み併せたものである。


ならば、“顕在化”における“中和作用”

が語られてもよいのではないだろうか。

顕在化における等化作用が始まっているのであれば。

“渦”と超心点

銀河系の渦の中心点は超心点ですか。

はい、中和を作り出す次元の元々のもと。


“銀河系の渦”が超心点であれば、超心点=渦だと考えていいのではないか。
また、超心点とは、触れることの界面であると考えてよい。

そして、人間の感覚は、その触れることの界面性を、なかんずく、“水”に感じ取るのではないか。


●超心点(ちょうしんてん) 潜在化における重心の位置。人間の次元における反覚醒と覚醒の境界。表相の中和が起こるところ。定質を性質に変換させるところ。覚醒させる力を送りだすところ。モノの界面。モノと皮膚が接触する部分。覚醒においては「重心」となる。


人間の意識が、超心点に関与できるものではない。

あくまで、その上次元性が、“身体”を介して、受動的に、直観把握される空間性が、“モノと皮膚との界面”

としての超心点だ、という指摘になっている。

人間の皮膚が、モノと触れて、超心点を作っているものではない。

しかし、また、

人間が、どれほどの、モノとの接触を、一日、そして、全生涯に渡り、為すのか。

そして、その全人類的な総体としての、触れることの営みを考え合わせれば、
下次元の“触れること”の超心点的な投影現象が、

上次元の超心点=銀河の渦としての働きと、照応性をもっているのではないか、とも考えられる。

つまり、人間の触れる体験の総体があってこそ、銀河の渦としての超心点が、成立しているということでもある、と。

・・・・・・

超心点は、皮膚とモノの界面であり、また、モノの界面ということでもある。

皮膚~体表に、ケイラクが関係していることに間違いないが、

“ケイラクの原型とは、原形質流動”(増永静人)だとして、

イラクは、相手の皮膚に触れた時に、自分の皮膚、つまり指先などと、相手の皮膚との間で感じとれる何かである。

あるいは、自分の場合は、空間そのものと、自分の指先との間に、“空間のケイラク”というものを感じとることができ、

まず空間のケイラクを触知して、それを、体表的な場に体表ケイラクとして移す、ということをやっていることを分析している。

そして、“空間のケイラク”と、具体的な、相手の体表に触れることのケイラク現象との界面に、点的な現象としての“経穴”、つまりツボというものが介在していると感覚されるのだが、

その面的な境界部の経絡現象の中で発現する経穴のあり方が、“超心点”という語感と、重なるように感覚されるのである。

その意味では、経穴とは、ひとつの渦である。

・・・・・・

経絡と経穴、つまりスジとツボは、面や線と、点との関係に思えるのだが、これはおそらく四次元的な性格をもつ。

その意味で、“形質”という用語にとても似ていると感じている。


● 形質(けいしつ) 元止揚の反映としての力。裏を返せばカタチを生み出すための力。カタチとは形質を等化している力。意識の外面と内面を等化する力を持つもの。上次元における総体化をもたらすことができる力。核質に関与して核質の中和をするために生み出される力。


形質とカタチは、下次元と上次元の関係である。つまり、潜在化と顕在化の関係である。

(超心点と重心の関係に同じ。)

治療においては、形質的な現象として、経絡や経穴が感知されるとしよう。

これは、“スジやツボ”は、治療のみならず、芸能や職人の身体性にも共通する内部感覚であるから、

大工さんにも感知され、陶芸家にも感知されるような、体感である。

治療家の場合は、その内部感覚を、“モノ”に頼らず、身体そのもので辿ろうとするために、その構造性をより深く見ようとするということだと思う。


経絡と経穴が、面や線と、点との関係に近いとして、もう一度、超心点を、他のニュアンスで引いてみる。


●超心点 人間が点(=ユークリッド的な点)と呼ぶものの正反対の場所にある。人間の意識の内面においては、肉体と世界との界面部分として現れている。外皮。人間の身体の形態が作り出されているところ。物理学でいう特異性の本質。触覚とは定質が性質に変換される機能。


この、“点の反対にある”という性格が、形質とつながっていると思うのである。

というのは、超心点では、“表相の中和”が作用すると説明があるのだが、表相の中和と、“人間の反対”が関係し、この人間の反対と、形質が関係しているのだ。


●人間の反対 形質を持つもの。モノの中にいるもう一方の自分を人間が見いだすときに生まれる進化の方向性の力。形質が生み出されることによって付帯質の外面から付帯質の内面へと次元が変わり表相が中和され、人間の最終構成が生まれる。

●超心点(ちょうしんてん) 潜在化における重心の位置。人間の次元における反覚醒と覚醒の境界。表相の中和が起こるところ。


少し話がズレるが、

人間の反対が、形質をもって、表相の中和を為し、そのことが“最終構成”を作るということと、

“体表”が、“最小精神ψ3の負荷”として、顕在化の意識としての、精神の次元を構成することが

パラレルに感じられる。

これはつまり、

人間の皮膚~体表の働きに相当するもの、つまり、超心点~表相の中和~形質が、

顕在化の働きにおいては、

体表~最小精神、そして、最小精神を負荷とする重心の作用、というかたちで、顕在化の意識における精神の働きとして、

“カタチ”を生み出すこと…形質の上次元がカタチ…

ということと、パラレルだ、ということである。

・・・・・・

このあたりを短絡すると、

イラク現象=原形質流動が、皮膚と空間との界面と、細胞膜としての界面と、パラレルだ、ということを想像するのである。

つまり、細胞質と、核質との関係が、

下次元と上次元との、膜を挟んでの、二重襞のような、構造と、パラレルではないのかと。

すると、細胞内の膜が、原形質~原形質流動を生む“構造”であり、

また、原形質流動そのものが、細胞の膜の構造を生命現象として下次元に現す、空間の運動性であるとして、

そのような意味での、

渦としての、原形質流動と…しかしその実態は生気論的なものとして科学的には解明されていない…

体表的な界面をめぐるケイラク現象とで、

パラレルではないのかと。

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(一般的には、健康、あるいは元気を賦活するとは、

局所的な症状の対応であるよりも、“細胞レベル”で喚起することがより上級であり…治療に対するヒーリングの意味合い…

その点に、“元気”という概念をめぐる、ケイラクの、本質があるということが言われる。)

“点球”を考える 細胞の空間との関係

●点球(てんきゅう)

人間が宇宙と呼ぶもの。顕在化から見ると人間が意識している宇宙が点の内部に見えることからこのように呼ばれる。有機体の活動次元。人間が宇宙と呼 んでいる四次元時空の広がりのすべて。時空から見ると電子は点の内部空間として見えるが、反対に電子から見ると時空が点の内部に見えるという意味。


ここで面白いのが、

“人間が宇宙と呼んでいる全体性”が、“4次元時空”だということ。

“4次元空間”ではなく“4次元時空”。

つまり、3次元空間+時間の一次元である。

ここでは、4次元時空の外部が、4次元空間だということになる。

その意味では、

4次元時空=点球は、外部として、4次元空間に接触しているとして、

その“界面”というものがあるということになる。

これは、ヌーソ○ジーで“核質膜”と呼ばれるものと関係しているのではないか。

おそらく、この“核質”は、“細胞”と関係があるのだろう。

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指圧家の増永静人氏によれば、

“氣~ケイラク”の働きは、細胞における原形質の流動パターン、つまり、いわゆる“原形質流動”であると言い、

また、この原形質流動の存在は、生物学の初期で提唱された概念ではあるものの、“生気論”的であるとし、理論的には怪しい部分を含むために、

現在の生物学~医学では、ほとんど“原形質流動”の存在は扱われていないという。

今、思ったのは、

細胞内の原形質と、細胞核内の核原形質(核質)との、違いはなんだろうか。
あるいは、その二重構造とはなにか、という点。

細胞膜→細胞原形質→細胞核膜→核質→核小体(仁)という構造となっている。

ひとつ、思うのは、細胞膜~細胞原形質があり、その中に核膜と核原形質があるとして、

これは、“○○の中に○○がある”という入れ子というよりも、ある種の“同時性”ではないのか、と。

逆にいえば、そのような“二重襞”の存在が、それをして、各々の、細胞質と、核質とを、在らしめているのではないか、という直観。

そして、その“在る”という“ひとつの構造”が、そのような膜の二重性、そして、その二重性の展開である多重性~多層性として、構造化されているのではないか。

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そして、この“膜の多重性~多階層性”としての空間の重なりの世界は、いわば“上次元構造”としてあり、

それを、下次元構造、つまり、物質現象として支えているのが、“原形質流動”としての液体の運動性、つまり、渦動、渦ではないのか。

渦、というのは、“ひつき神示”でよく出てくるキーワードで、力とは渦であるということだ。

ヌーソロジーで渦というと、自分は“超心点”を連想する。

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点球…

点と球との照応。

つまり、点のような球であり、球のような点でもある。

手をぎゅっと握る、そして開く。そんな運動を連想する。

これが、人間の意識の全てあるとして、

その点と球との間に、さまざまな“膜的な階層性”を設定し、

しかしながら、“上次元”から見ると、その全体性は、“ひとつの点”としか見えないくらいの

微小性である。

それは、表象的には、さまざまな感覚の段階であり、

内部的には、直観的に把握される、身体に投影された上次元構造の、反映である。

“表相=点=瞬間性”は“対化”している。 #Noosology

““表相=点=瞬間性”は“対化”している。

それを等化してしまっているのは、人間の言語~意味のピン止め作用~一般化である。

ゆえに、そのような等化作用を中和させて...表相の中和...

“表相の対化の顕在化”を招き寄せるのが、

“覚醒”の扉となる”

https://twitter.com/kihitsu_2013/status/1231070429281841153

 

●表相の中和 人間の最終構成から顕在化に入るところに生じる。人間に表相の働きを失わさせること。すなわち、表相の顕在化を起こさせ表象化をやめさせてしまうこと。表相の対化を作り出すための上次元の調整作用。


●表相の対化 方向性の対化。自己と他者の関係を作り出しているものの本質。点の対化。顕在化において生まれる最初のカタチ。


●表相(ひょうそう)

人間にとっては特定の角度から見た一つの対象の見え姿(瞬間性)に対応する。生成の次元としては最もミクロなものだが、最もマクロなものを同時に重畳させている。

精神構造全体としての「一」と、最小次元としての「一」が同じものだということ。観察子表記として表相はα7~α8に対応する。顕在化はψ1~ψ2。物理的には磁場そのもの。

 

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●表相の等化(ひょうそうのとうか) 表相と表相*が等化されるということ。真実の人間の意識がヒトの総体の次元に進化するとき、定質の発露を作り出す精神作用となる。

人間の内面に形質の等化を作り出す作用。他者の表相をユークリッド的線として見えさせ、その線を自己側にもコピーさせるということ。結果的に人間の位置を三次元の中に投げ込む契機を作り出すことになる。

人間の意識に客観性を作り出させる原因となるもの。モノが見る者と見られるものに完全に分離し、見る者としての空間が見られるものとしての空間を失ってしまうこと。人間の意識が進化の方向を見失ってしまうこと。

人間が存在しなくても世界が存在するという考え方を人間自身が持ってしまうこと。精神の内面が顕在化を起こすところ。近代的思考の誕生。

 

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