体表をめぐるあれこれ
うっかりしてゴーグルをかけずにグラインダーでプラスチック部品を削ったところ、破片がちょうどうまく両目に飛び込んだようで、眼科に行ったのだが、まぶたの裏のどこかに入り込んでいるのか、取れない。
それから2週間ほどの間、まなこを動かすとわずかな違和感が残るが、ふだんはさほど支障はないのだが、仕事で、相手の体の状態を感知しようとする時に、このようにまなこにおける敏感な受動性の感度が低下すると、空間の振動のようなものの感知もまた、影響をこうむるようだ。
ヌーソロジーで「体表とは正4面体(=4次元)の高さ」と言う時、この「体表」とは、イデアックなレベルにおける概念だということである。それは、肉体における体表(=皮膚)とイコールではないだろう。
その意味では、空間の振動を直接にとらえるまなこの鋭敏な感覚があるとして、これもまた「体表」としての機能であり、イデアックな概念としての「体表」、“反映”としての症状、身体感覚と言えるのかもしれない。
・・・・・・
相手の体の様子を把握する時、いわゆる「エコーロケーション効果」というものを利用するようになった。
盲人にエコーロケーションの使い手がいるようだが、自分の場合はいつの日からか、自然と、舌や、指のタップ音、そして、呼吸の音などを使い、その反響でもって、相手の身体の表面、つまり体表と、それが接している空間の状況を把握できるようになった。
また、いわゆるケイラクに関しても、これは体表に位置しているのだと思うが、これも、体表に対する体表*のようなものが、ケイラクに対するところのケイラク*というようなかたちでもって在って、それは「空間」にあるのだと思う。
つまり、空間において、体表に対する体表*としての、ケイラク*が観察でき、こういう、ケイラクとケイラク*との照応関係において、ケイラクの全体像を追いかけていくというかっこうである。
ケイラクを対象的、つまり指さし動作的に捉え、その名前を呼ぶ、教科書的に対応させている実践のあり方は、片側通行のようなものであり、おそらく本来のケイラク観察は、このケイラク×ケイラク*、すなわち、体表×体表*の関係でそれを捉え、その場合の体表*は、空間としてある、ということであろうと思う。
(その体表*としての空間もまた、対象化されたものではない。それもまた、身体の位置や動きとして、ケイラク×ケイラク*の関係性の網の目から逃れていない。言葉として言うならば、持続をとらえるのは持続であり、これらの関係性もまた、持続(持続の全体性)に含まれているという入れ子関係になっているということだろう。)
(これは、舞踏的な身体性と言えるだろう。舞踏、舞踊、あるいは武術的なニュアンスも含め、踊っている、踊れている、ということが、ケイラク感覚を、生きた状態、つまり、ケイラク×ケイラク*、体表×体表*として、持続的な、“回転”の状態として捉えているかということの前提となると思える。)
(その時、観察は、たんなる対象化としての片側通行ではなく、“それに成っている状態”としての関係性そのものとしてある。観察が、分かるという停止ではなく、行為そのものの中にある。・・・こういう捉え方は、例えば、荘子の『包丁』などに出てくる。あれは肉の解体職人の話でもあるし、哲学的な認識論としての話でもあろう。)
・・・・・・
イデアックな次元にある「体表」という概念。概念の存在としての理念。
それがイデアックなレベルに在る、振動しているとして、その反映が、人間の身体、肉体において感覚されたり、観察されたりするであろう。
それはひとつ、空間の振動を、目玉という、極めて敏感な器官がそれを感じ取っているであろうということがひとつ。
またこの場合、目玉を完全に粘膜で包み込む、つまり目をつむることによって、感度が上がる、といった状況もあるだろう。
その他の「体表」の反映としては、「腸」というのがあるかもしれない。
腸は絨毛がびっしりあるので、たいへんな面積をもっているといい、その意味では「体表」は、消化器の内側においてずいぶんと広いということになる。
これは完全な無意識のレベルの話ではないのか。
腸内の腸内細菌の様子、それらが“コミュニケーション”していると言うが、対話しながら、「自分の身体、そして、自分にとって他の身体」という免疫的な自己同一性を、脳の意識のレベルを介すことなく判別しているというが、これを意識的に感じとれたら、大したものだろう。
しかしこれはおそらく、言語的にどうの、という話ではなく、腸にはやはり腸*という双子がいて、この腸×腸*の連続性、すなわち“回転”を執り行っているのは、人間の個別的な意識であるというよりも“環境”であり、それは、食習慣や、食をとりまく生命環境のありさまと関係するのではないか。
・・・・・・
このようなことを考えてみると、理念としての「体表」の反映は、身体や肉体において、ひじょうにさまざまな具体的な様態をともなって展開しているのではないかと予測される。
-引用-
「・体表(たいひょう) 人間の意識において最初に顕在化する4次元性のこと。最小精神ψ3が持つ負荷。正四面体の高さのイデアに対応する。正四面体とは一つのモノの認識のカタチ(モノとは正四面体に中接する正八面体)。」(ヌーソロジーより)
-引用-
注:エコーロケーションの詳細に関してはまた後ほど書くかもしれないが、ここで私は「感覚自慢」をしようというのではないこと。
本質的に、女は男の3000倍の感覚があるらしい。「双子感覚」のような能力に関して。
初めから完敗していることに関して、挑もうとするのが無理で、だから行者などは「女人禁制」とかにしたのでしょう。
この場合、女は古代、男は現代と言い換えることもできるでしょう。
あくまで重要なのは、肉体ではなく、霊に関する、学問であり、それは、現代の方が進んでいることは明らかでしょう。
学問や知識そのものがなにほどか進歩しているわけですから。