視覚からの脱皮

-引用-
昨日の鏡の話のように、ヌーソロジーは基本、「見る」ということを問題にするのだけど、この「見る」とは単なる視覚のことではないので注意してほしい。単なる視覚による「見る」は主客分離を前提とした上での「見る」であり、そこには主客分離以前の「見る」は含まれていない。
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ここらへんはおそらく面白いところで、今思いついたのは、

知覚の現場、としては、アーチスト、知覚の構造論みたいなところでは哲学者、みたいな人たちに語らせた方が面白かろう、というようなこと。

ちなみに交信録の方では、

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人間の五感において視覚が最も次元が低いのでしょうが、その他の感覚についてはどのように考えればよいのですか。

視覚、味覚、嗅覚、触覚、聴覚の順となります。
-引用-

といった内容がある。

知覚論を言う場合には、要するに、感覚的なリアリティーに近づけて語りたいという意図なわけだから、単純な話が、逆に分かりにくい話になってしまっては意味がない。

そういうこともあって、必然的に、五感のうち、最も次元の低い視覚という感覚に引き寄せて、ひとまずヌーソロジーの感覚論、知覚論は展開されていた、と考えていいのではないか。

そういう意味で、皮ひっくり返すという部分では、まず視覚から、というのは妥当ではないかと思われる。

-引用-
脱皮の皮は見たことあるけど、どうやってんだ?

脱皮はまずは頭から。
石や枝なんかの固いものに頭の先をこすりつけて、最初のひと剥きを強引にこじ開ける。
首まで剥けたら、あとはパンストを脱ぐ要領でスルスルっと。
-引用-

反転というのは、意識変容のことだから、そのシンボルとして「破れ笠を置く」とし、それは要するに、頭から破れて脱皮する蛇の象徴なのであり、破れ笠を置くとは、召喚の儀式となっている。

ただし、目が意外に、剥きにくいという。

一回の脱皮で目が剥けず、次にまた重なり、また重なると三重のウロコが残る。こうなると、いろいろと支障が出て、死活問題になりかねないらしい。まぶたのウロコが取れたらほんとうにさっぱりする。

そういうことで、視覚から剥ける、反転するのだが、ここが意外に難しく、場合によってはこじれる、ということを、古代人は知っていたということになる。

つまり、冒頭の引用中の、「「主客分離を前提とした上での「見る」」から「主客分離以前の「見る」」へと到るプロセス」は、それなりにやっかいな内容をはらんでいるということになる。

そこを経過すれば、スルスルッ、ということなのかもしれないね。

 

参考ページ:Twitter https://goo.gl/dz1170

参考ページ:ブログ 「どうやって脱皮すんの?」https://goo.gl/j07ZJd