死の現場としてのバーチャルに対峙するもの

ネットをやればやるほど、独特の不安感、孤独感が高まる。バーチャルには生命感覚が無い。

そうした心理メカニズムを見越した大人が、不安になった子供たちや若者から金を吐かせようとし、その手法をまたその子らが摸倣する悪循環。

これを断つには、圧倒的生命感の中で歓喜する時間を持つことが必要になる。

それはひとつ、ケイラク感覚的な喜び、高まりであろう。

イラク的喜び、高まりがもっともよく現れているのが音楽。とくにロックの表現だ。ステージ上でこれでもかと、高まりをアピールしている。ギターなど、楽器というよりもほとんど棍棒のようだ。

演奏者がいちばん気持ち良くて、圧倒的に気持ちよくて、ステージと客席側との温度差は絶対的なものであると分かるとき、ちょっとばかばかしい気分になるだろう。

同様に、実のところ、ケイラク的な施術において、やられている方よりもやっている方が圧倒的に気持ちいい。

そんな意味で、参加型の整体、みたいなものがどんどん出てくるだろう。セッション感覚ということだ。

友だち、親子、夫婦、恋人同士、二人でぶらっと入ってセンセイと一緒に3人で、ということになる。

音楽はスタジオのセッションから生まれてくる。ところが、ステージでは、紋切り型の表現となる。つまり、次元がひとつ落ちている。

ステージを続けるツアーの途中で飽きてくる。嫌になってくる。そこで、女やクスリをあてがわれる。そして早死にする。

セッションという生成形態から、アルバムやステージといった紋切り型の表現、つまり、一次元格下の表現活動に拘束される。これがショービジネス~ステージ産業の実態である。

そんな構造的弊害がありつつも、これだけの表現が為されているというのは、構造的弊害がとっぱらわれればどれだけすばらしいものができてくるか、という話だ。

それは端的に治療の現場においても、「私やる人、あなたやられる人」という枠組みがすっかり飽きられていて、一抜けたしたのが天才治療家のハルチカであったわけだが、その傾向は続いていくのではないか。

なにかを対象化してうんぬんするという治療行為よりも、カオシックなところから一本の垂直線を立ち上げる活元の泉の作用の方に将来性があるといこと。

ハチルカが、それ(紋切り型の治療)をやらせると全部ダメになると言っていたのは「生命力」のことだね。対象化して、名前をつけて、うんちくこねはじめるとダメになるということだったのだろう。

奇跡のりんごの木村さんもそうだね。山の中で変成意識におちいって、一本のリンゴを幻視し、あわてて駆け寄った時、山の土のやわらかさに驚き、それを畑に再現することを山の神に誓った。

「畑に重機を入れないで人間が歩くだけだから土がやわらかく根が伸びる」というのでなく、まず、歩くということが重視されている。もっといえば踊るということだね、柔らかさということなわけだから。

ところが、後付け知識は、「重い重機が畑の土を踏みつけないから、よく根が伸びる」というように説明したがる。

そこに重大な違いがあると思うね。

木村さんはキツい手作業の続く木村農法が続けられるか、続けられないかのメールマークを、重機の使用に置いている。それは、土のやわらかさという測量的な観点ではなく、まずもって、土を踏むという実感性への覚醒だろう。

無農薬農法に結果が出ず、家族の生活を犠牲した結果、山の中に首を吊りに行った“かまど消し”の木村さんは、その圧倒的な生命感覚こそを勝ち取ったということだろう。

それはとても“新しい”ことだ。生命の火がとぎれかかっているこの時代てであるからこそ、それを意識的に再発見できる。

そしてそれは客観的~測量的なことではなく、まったくもって個的な体験となる。そこを木村さんは弟子の修行に見ている。