重心感覚と足裏感覚
トトヘルメスの図像だと、イデアの世界はヘルメスがもっている杖の世界であろう。
一方、これまでの自分の関心の中心は、ドラゴンを踏む足の部分かな、と思う。
ずっとこの問題に取り組んでいるし、そういう意味では、問題意識がブレがない、とも言える。
(低い次元で堂々巡り、とも言う(笑))
「これってなんなのだろう?」ということなのだが、最近、それは
「体表=ψ3の負荷」というやつだ、と分かってきた。
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それは三次元と四次元の境界領域ということだろう。
四次元空間は「正四面体」として顕れてくる。
「体表」は、「正四面体の高さ」だから、正四面体の一部だ。
ヌーソロジーの「体表」の図によれば、正四面体の底面に、三次元空間のxyz軸が押しつぶされるかたちで平面化されていて、その中心から、正四面体の高さ方向へと伸びている直線部分に相当する。
体表が直線だというのは、不思議が感じもするが、ひとまずこれが「四次元空間への方向性」である。
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「重なり感覚」、「重心感覚」と、足の裏の感覚が関係が深いのではないか。
重心感覚とは、足の裏感覚が他のさまざまな感覚に拡張されたものではないだろうか。
「コップを手でつかむ」ことに「重心感覚」が生ずるとして、その時、手のひらが足の裏のようになっているということになる。
身体の器官には、二重性がある。両義性がある、とも表現される。
たとえば、胃腸は消化器官であるとともに免疫器官でもある。腸が免疫機能をもっている。
脳は、神経系の中枢であるとともに、感情に関係するさまざまなホルモンを出す。
筋肉、なかんずく足の筋肉は、運動器官であるとともに、全身の血液循環、体液循環を高めている。
そうした器官の両義性が、医学的に裏付けられてきた。
また、器官が両義的であるからこそ、各器官が、つながることができるということだ。
表の部分で独立しつつ、裏の世界でつながっていたのである。
交換神経と副交感神経の裏表、昼と夜の世界を持ついわゆる自律神経の存在。
「重心感覚」は、足が、運動器官として、三次元的な方向性をもって歩くのでなく、逆に、そうした目的性を失った時に、顕れる。
そのような裏感覚、裏身体のあり方をもって、「舞踏=片足立ちのダンス」が「迷宮」に喩えられたりもする。
「無用の用」ということであり、表の機能が無効化された時に顕れる器官の働きに関する分析があまり進んでいなかった。
表の機能中心であり、裏の機能、潜在的機能に対する研究が後手にまわっていた。
そこらへんは、東洋医学、気の研究としてあったが、身体から身体へのダイレクトな暗黙知、いわゆる身体知というかたちであったことで、それを表に表すうまい方法が一般化されていなかったわけである。
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足の裏の感覚というのは、数学に喩えると「複素共役的」ということになるのだろう。
案山子のように片足立ちの時に、そのような足裏の本来の性格が顕わになるのだ。
足裏は、二つで一つという、複素共役的な何かであり、ベタ足で立っている時は分からないが、不安定な片足となった時に、その性格が顕れる。
独特な、片足立ちでこその身体の安定というものが存在する。
目的的に歩くのではなく、無為に歩いてみるということ。
足裏の本質をもっぱら顕わそうとするための歩き方。
足裏感覚に感覚を基礎づけることで、「コップを手でつかむ」時の「重心感覚」を、よりハッキリと感じ取ることができるようになる。
手の中に、体全体の重心を、映し込むことができるようになる。
その時、手のひらが、足の裏になっているということだ。
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昔の人はよく歩いていたし、地面も柔らかく、でこぼこだったので、足裏感覚が生きていたわけだ。
地面が固く止まっているというよりは、地面が震動しているという感覚がある。
樹木の根っこの間に、土が挟まっていて、ハンモックのように大地が振動しているというとおおげさになるが。
現代の都市文明生活の中で、この足裏感覚が無くなりつつある。
しかし、逆にそのことが、その重要性をクローズアップさせてもいる。
さまざまな現代病として、その問題性が、顕わになってきた。
ヌーソロジー用語としての「体表」は、「ψ1-2→ψ3」という、顕在化の入り口部分にある。
四次元空間への方向性という通路を介して、「負荷」というものを送り続ける。
それはいわば“ふいご”のような働きである。
画像:
体表
トトヘルメス
足踏みのふいご(金属の精錬に用いられていた踏鞴(たたら)