重心を神とする信仰のあり方
日本人には宗教が無い、と言われる。
いやそれは、宗教と言えるようなものではありませんよ。
少なくとも、世界レベルの、世界宗教との比較においては…
世界普遍宗教と呼ばれるようなレベルのものと較べれば、その教義はあってないに等しい…
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書店の思想コーナーに行って、仏教の原典の現代語訳を読む。
高邁な哲学思想である。
いわゆる念仏仏教とは、ぜんぜん違う。
その意味で、日本の仏教はほとんど“形骸化”しているのではないか。
いやそもそも、日本人はまともに仏教の原典を読み込もうとしたのであろうか?
(以前、仏教の原理主義を唱える某教団が、大事件を起こしたが…)
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家の仏壇に、坊さんが来て、正座して、お経を唱える。
仏壇には、「仏」になった祖先、祖霊が祭られている。
死ねば仏、というのは、日本ならではの解釈だ。
これは仏教ではなく「祖霊信仰」というものらしい。
仏前で正座している坊さん。
お経というか、むしろ「正座」そのものに主眼があるのではないだろうか?
正座は、世界中で、日本人だけがやる習慣である。特殊な座法である。
最近は減ったが、昔は正座が多く、これにより、尻に押しつけられた足首の外側の靱帯が伸びてしまうことで、膝関節の外側への彎曲変形の状態となる。
ガニ股になっても、正座を優先させていた理由は?
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蛇神研究の吉野裕子さんによれば、正月に飾る鏡餅が、古い神、蛇神の、居ずまいを正した姿であるという。とぐろを巻いて、そこに頭をのせる。
足の無い蛇が、あぐらをかく、正座をする、という面白い比喩がここにあるように思われる。
足の無い蛇があぐらをかく、正座するというのは、いわば「座ることそのもの」というニュアンスである。
(足の無い蛇を、全身そのものが足であるという考え方を、古代人がやっていた。これは、古代人に「両義性」の感覚があるからである。無いと有るが、容易に反転する。)
正座をやって足がしびれるというのは、足のない蛇に似ている。
足がしびれるので正座にはまいってしまうが、坊さんが足がしびれないというのは、「びみょうに重心点をずらしているから」だという。
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鏡餅の、表象としての意味合いは、足の無い蛇が、しかし、「そのなにか」を踏んでいるということであり、言い換えれば、「踏むこと」そのものの比喩となっている。
なにかを踏みつけようとすることが、なにかを認識し、それを対象として捕らえ、表象化するという行為の衝動に似ているのだとして、(それは嫌な小動物を、とっさに足で踏みつけようとする衝動的な動作に似ている)
その時に対象となっている何か、その、「それそのもの」を抽出しようとした時、それは要するに、その行為、おこないのあり方を純粋に抽出することであり、それは、
「踏みつけ」ようとする衝動そのもの中にある、「踏むことそのもの」。
つまり、自らの体に自らの体をのせること、自らの体表の上に体表を重ね、その重ね合わせの中で「重心」を取ることの意味合いとなる。
そして、そのことが、「蛇神」なのだと。神なのだと。
それは、「重心」を神として祭っていることに等しい。
(修験道の場合は、滝に打たれ、体表の感覚を限界まで引き出しながら、身体上部のさまざまに変わる水の抵抗に抗して、重心バランスを取ることの訓練である。)
「重心こそが神」。
これこそが、信仰が無いと言われる、日本人の、信仰の核心なのではないだろうか?
(※ややこしい話をしたが、この重心の実践をそのままやっているのが女性の妊娠~出産であろう。おんぶ~だっこの育児であろう。今、多くの若い女性がそれがまともにやれないのは、意識が外側にばかり向かい、重ね合わせの身体感覚が極度に弱まっているからだろう。それはそれで仕方がないだろうが、必ず、重心感覚の劣化に抗する反動が強く出てくるはずである。)