即興としてのものがたり

即興としてのものがたり。そこにはじまりもおわりもない。

神話に対し、芸能論でアプローチ、というよりも、芸能そのものとしてアプローチするという方法論。

面白いものと面白くないもの。臨場感ということなのだろうか、学者の◯◯論からのアプローチといったものの、つまらなさ。そういう流派、学派だったり(伝統)、学論(技術)だったり。

芸能の本質が即興であり、また、神話の本質も即興であろう、との説、切り口。

つまり、どこから読んでも、その切り口そのものが、つながるようになっているという物語のあり方。読んだ時、それが観点として、論として、分断、主客分断されないことこそを、神話的なエネルギー(=流れそのもの)は求めておる、と。

そこで神話は神話として初めてむくわれる。つまり、今まで、人間たちはずっと神話を読めていなかったことになる。

そういう準備ができてきたのが今という時代ではないかい。

(アメノウズメの踊りが出てきた時点で、岩戸隠れしたアマテラスだとか、その原因となったスサノオだとか、そっちのけ、視野の外に行っている、と。つまり、ウズメの踊りそのものが、そういう即興的なものなのだと。)

(これは歴史学の視点からも指摘されている。ウズメ=猿女たちの巫女集団は、もともと土着であるが、神かかりして歌うように物語をやっていたのが、やがて、文書としてまとめられ、定型化していく。最終的には必要となくなり、放逐される。(「アマテラスの誕生」))

猿女の猿は、ものまねや、猿(さる)=戯れ(ざれ)、などの解釈があるようだが、いわゆる摸倣(コピー)について、古代人はより繊細な解釈や実践の方法をもっていたということのようだ。

ややこしいことを言っているようで、たぶん、こういうことは、今広く理解され、共感されていることではないか。鏡の二重性のようなものとして。

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