エーテル体としての蛇

へびというのは、どこからどこまでが頭なんだか、首なんだか、肩なんだか(笑)、胴体なんだか。

どこからどこまでが胴体で、どこからしっぽなんだか。どこが生殖器なんだか。

よくわからないわけであり、まあ、なにかが“連続している”というニュアンスとなる。

これはもちろん、人間がへびを見た時の印象で、へびそのものはそんなことは不思議でもなんでもないわけで。

逆に蛇の神様が、人間が地上に落ちた時のショックで体が割れて関節ができた、なんて話もある。

古代の人間の直観は、人間がものごとを分けて考えるのは、体が分かれているからだろう、ということであり、逆に、それを観察しているもうひとつの体、流動的な体がある、分割されない体がある、と考えていたのだろう。

それがエーテル体的な体というわけであり、またこれが、時間を超えて、つまり発生学的な機序を超えて、人間という生命体を形成している力だとの説明がある。

それこそ“持続”して、それを作っている、あらしめていると。

ゆえに、古代より、世界一般に蛇がエーテル体の象徴となっている、との説明は、よく理解できる。

生命を形成する力であるエーテル体は、途切れずにそれを為しており、持続し、それそのものが分断されていない。

それはつまり、主客の能動受動性をもって、つまり時間系列をもってそれを為すのではなく、ひとつの全体性、“カタ”をもって、それを転写するようにして、それを形成しているのだろう、という予測が立つ。

初めもなく終わりもなく、途切れのないひとつの流れであり、また全体的な持続性である。しかもそれそのものとして完結しておらず、他に働きかけることのできる二重性をもっている。多層性と言い換えてもいいのだろう。

二重性、双つあること、重なり。そして、観察すること。分かれ目を、あるひとつの原理により、観察している。そこに“1と2の途切れの法則”、分けることと、つなぐことの、いわば同時的な観察の能力がある。

切の発音tsyetと七の発音tsietが近いとあり、骨、構造の節目、切り口、分かれ目。分と切で、7と8の法則と考えてもよいのだろう。切の中に七があり、分の中に八がある。

客観化すると、それは“分かれている”。客観化の距離を外すと、そのものとしての切り口となっている。それはむしろ、分けているよりも、つないでいる。それとそれとを。

 

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