対称性と関係性 一神教と多神教
アメリカが北朝鮮をどうの、しようとする。
ものごとを、対象化し、それをどうのこうの、言ったり、操作しようとする。
それが誰でも、ほとんど当たり前の感覚になっている。
であれば、「あいつをいじめる」とか、「いじめっ子のあいつをなんとかしよう」とか、戦争からいじめまで、もろもろのトラブルのたねは尽きないのではなかろうか。
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大国の戦争から、近所のいじめまで。
特定のなにかを対象化し、それがどうだの、それをどうのしようだの、そういう論調が多い。
近所のおかしな◯◯さん。職場のおかしな◯◯さん。クラスのおかしな◯◯さん。
「ほっといたらいいではないか」とも思ったとして、それができないのは、「ものごとを対象化し、それがどうだのこうだの、言ったり、やったりする」という行動が、パターンとなっているからだろう。
ヒヨコのむれの中で、黒い小さなシミのあるヒヨコが、まわりからどんどん突かれる。
そのヒヨコそのものがどうだというよりも、小さな点、その対象を、エサへと向かう動物の習性だろうか、つつこうとする、というパターンによっているのだろう。
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その程度に差こそあれ、なぜ、そのような「点」の対象物が「気になって仕方がない」かというと、そもそも自分自身の「存在」が、そのような、点のような、孤独というのか、そういう在り方として、ふだんからなんとなく考えていて、(無意識的に)
それが「不安」なので、いわば反射的に、そのような「点」としての対象物へと意識が向かうのではないか。
これを逆にいえば、「点」としての自分の存在、そういう不安感を強く感じている人こそ、点としての対象物に向かいがちであるし、また、そういう行動パターンに身を置きがちだということになる。
自らの点としての存在のあり方に対し、自覚的であることの裏返しの作用なのであろう。
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アメリカのキリスト教は、一神教である。アメリカには、熱心なキリスト教徒が多い。
日本は、多神教であると言われ、キリスト教徒の数はひじょうに少ない。
なかなか一神教というものを受け入れない体質だとされる。
「世界の中に、自分がぽつんと、一人、在る」という、孤独な人間のあり方は、一神教の神のあり方と似ている。
そういう認識が、「外」に投影されたものなのかもしれない。
逆に、そうした孤独をできるだけ避けて、向き合わずに、適当なところで折り合いをつける、お茶をにごすということであれば、一神教を嫌い、結果的に、多神教となる。群れを形成する。
一神教では、一人の神が、世界を創っている。
この時に、世界という全体を、「点として対象化」している。
キリスト教では、神が世界を創造しており、自然と、人間もまたそのように世界を見るようになるのは当然である。(いいもわるいもなく、論理的帰結といえる。)
人間が世界を創造できるはずもないが、「世界創造」という認識パターンが人間にも共有されている。結果、世界そのものもまた、「点=対象」のように見るに到る。
そしてしかし、世界を創造するのはあくまで神であるので、世界に対する能動性は、神か、あるいはそれに代わる、なんらかの超越的な存在や働きにゆだねられる。
そういう考え方や行動のパターンが、大国アメリカに現れているように思える。
(北朝鮮がいいとか悪いとかいう話ではなく、イラクがどうの、北朝鮮がどうの、という、対象化のフォーカスの仕方の強さの問題。そのような考え方と行動の傾向の強さの問題である。)
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これに対して、多神教、やおよろずの神々の国である日本の場合は、神が世界を創ったといっても(国生み)、純粋な創造ではないだろう。
夫婦の神が、海を棒でかきまわして国(島々)を創った、というお話である。
まず夫婦ということで純粋な一つの神としての創造神ではない。
創造の主体性は、純粋に一人であることで、これにより、一つの世界としての対象化として、純粋に、1対1の関係として、定まるのである。
海をかきまわして、とあるが、では海はだれが創造したのか、という話になってしまう。あるいは、海をかきまわす棒はどうしたのか、と。説明がない。
いやそれはセックスの比喩だろうと考えるとして、それもすでにあるものだから、創造ではない。
1というよりも、2ということが基盤になっている感じである。
純粋に、一人で孤独である、というパターンを想定することや、実際に孤独になるということを、嫌っている傾向があるのだろう。
米つぶが、ごはんのかたまりから離れるとひからびるのに似ている。
「対象化重視」ではなく、「関係重視」であると言えるのだろう。
たとえば、今、北朝鮮がどうの言っているが、それでもって近所関係がとくに悪化しているようなことはほとんどない。
本音としては、そのような対象化の働きが強まった時ほど、関係のあり方を強めねばならないという欲望が、ある種、本能的に起こるが、
しかし、そのような関係のあり方が、身近な関係よりも、より大きな規模での関係のあり方として上まわった時、(国家と国家、など)、そこから外れた存在に対し、とたんに「対象化」というパターン化がおおざっぱなかたちで引き起こる、ということはあり得る。
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※自分が、世界の中で一人在って、ものごとを考える。そして物とは、一つあることである。そのようにして、一人が、一つの物を対象化する、というパターンが定義される。これは当たり前のプロセスだろう。
そのプロセスの中で、その対象化のあり方の純度を、いわば論理的に競うということが、宗教の場合にもあったのだろう。
日本人において、そのようなパターン化が、「しつように嫌われる」ということがあるとするならば、それは、この日本列島にさまざまな地域から流れ着いた先祖があって、その子孫が、起伏に富んだこの限られたスペースで生きて行くために、争いを避けることが必要である。そのために、ことさらに「対象化のパターン」を嫌ったのだろうと考えることができる。