すぐに切り替わるわけではない 情報という名の進化の夾雑物

構造的には2013年に切り替わりがあるとのことだが、

それはもしかして、自分の生きている間・・・あと30年ほどの間に、

ちょっとした変化があるかないか、といったところかもしれない。

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空間的には、徐々に確実に、ひじょうに遅遅とした歩みではありながらも

確実に進むのであろうとして、

とつぜん開けたいわばそのニッチ(隙間)なスペースに、一気に細菌のたぐいが増殖するように、

まずはコンピューターカルチャー、コンピューターサイエンスというものが

花開いたとして、

従来、サイエンスを超えるのは、サイエンスの中から生まれたコンピューターサイエンスだ、

という風評はあったと思うのだ。

しかし、それはあくまで、従来の科学の路線の延長線上にあり、

物を情報と言い換えはしても、本質的な路線変更というようなものではなかったのかもしれない。

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大きく、情報という言い方とコミュニケーションという言い方があるとして、

これは真逆の方向性なのかもしれない。

本質には、コミュニケーション、つまり対となった構造をめぐってのいろんな動きがあるとして、

その中で情報は、“蕩尽(とうじん)”されているのかもしれない。

つまり、コミュニケーションは自己言及的構造をもっていると言われているが、(内部の方向に入れ子的)

そのいわば“道具”として“情報”は“蕩尽”され、その燃えカスを取り除いていくと、

そこにコミュニケーションの本質という、くっきりした輪郭のなにかが残されている・・・というような?

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それは、自己-他者構造の本質とは何か、ということでもあるのだろう。

そういう意味では、おそらく、自分の生きる時代は、コンピューターうんぬんかんぬんで埋め尽くされた時代となっているだろうが、

そのウラ読みというのか、本来これはこうであるものが、従来路線踏襲(コンピューターサイエンスの、科学に対する)という意味では効率のよいそれが、その延長線上にそれを、たいへんなスピードで展開した。

しかしそれらは、おおまかにいえば、わりとすぐに“絶滅”してしまう進化種であると。

そのような意味では、情報でもない。コミュニケーションでもない。自己-他者でもない。

つまり、情報はあくまで、媒介物として、コミュニケーションという衝動の中で蕩尽され、自己解体していくなんらかの方向性であるに過ぎず

(欲望の対象としての情報~商品とは、まさにそういうことだろう。あのようなビートルズ現象があり、そしてジョンレノンの死があったように。)

それは確かに全体としてはコミュニケーションと言われるものであるが、その衝動もまた、衝動として、それを通してなにかを明らかにしていくエネルギーの鞘のようなものに過ぎず、(その目的は、プロセスとしての衝動を衝動して通過させるものに過ぎず)

さまざまな夾雑物をそこから除けば、そこには確かに“リアル”な、“コミュニケーションの本質”と言えるような“何か”があり、その何かを今の私たちは明確に把握することはできはしない。

あくまで、“ウラ読み”として、なんとなく、その存在を憶測するにとどまる、というようなこと。

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すくなくとも、“その全貌”といえるようななにかが姿を現すのは、当面先なのだろう。

何百年とか、おそらくそういう単位なのだろう。

しかしおそらく、その方向の中で、悪戦苦闘した魂は、死んで後、同じ路線にある者たちを

支援し、援助する立場となっていくのではないだろうか。