世界に差異を繰り込むことに関して

幅化された時間感覚は、結果主義であり、これは金銭的な尺度とむすびつきやすい。資本主義という時代の雰囲気であろう。

在ることと居ること。それぞれ、幅と奥行きだという。癒やす、癒えるの語源が「居る」に関連するという。healがwhole(全体、神聖)に関連する。昔、ヒーリング本によく出ていた話だ。

癒えることと、治ること。時間経過に対し、観察や感覚がどのように関わるか、ということ。

医学が扱う身体は、生命そのもの、すなわち実在、…というよりも、客観対象として一般化された、仮のなにかである。

学知としての対象知、分析知が、生命のリアル、実在を扱えないのだという哲学的な命題、原理というよりも、その違いをつまびらかにする論理がまだ無いのだ。

そうした次元で、学知を断罪しても、それはひとつの限界であるに過ぎず、せんないことなのかもしれない。

すなわち、徒労に終わる。

それはどのような論理となるのだろうか。

それは、その違いを対象化するのではなく、違いそのものを、もっとも根幹的な場所にあらかじめ繰り込むこと。

そのような、“あらかじめ、すでに”というニュアンスが重要だろう。

つまり、その違い、ズレそのものが、逆に言えば世界である。…そんな世界観としての、理論である。

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ここにこうなっている、こうのように在るということの原因をたどる。

そのたどり方に、独特の足取りが必要なのだというお話。

群としての多くの羊たちを置いて、はぐれた一頭の羊を追いかけようとした羊飼いの話。

黄金の羊に黄金の糸がつながっているが、そのたどり方にコツが要るらしい。