“寄り合い~重ね合わせ”に関する補足

日本の伝統的な共同体においての“寄り合い談議”といったものは、結論や結果を求めるものではなく、それぞれの想念を“重ね合わせ”する空間ではなかったか、ということ。

(ネイティブアメリカンなど、人間の集まりはもともとそういう性格のものだったのだろう。神聖かつ絶対的な権力、王権が発生するまでの小規模な集団では。正義のもとに否定された悪は、排除され、遺恨を残す。)

そういう重ね合わせの空間においては、概念の体系もまた独特であったろう。

つまり、なにかを指し示してそれがどうだのこうだの言う、誰の考えが正しいのかということになるようなタイプの言葉使いではなく、無限個の重ね合わせ、その反復に適したような、象徴体系、それが自然と「神話」となっていった・・・そういうローカルなプロセスがあったのだろう。

その意味で、この21世紀の新しい言葉もまた、あらたな空間での重ね合わせに適したなんらかのシンボル体系が要請されるのだろう。

そしてそれは、あらかじめ与えられていたものとしての自然としての受動性、自然に由来する神の存在ではなしに、なんらかの論理としての能動性をもつニュアンスであろう。

そういう意味でひとつ“多面体幾何学”というのが注目されているのかもしれない。

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-引用-

昔の人間が対話する時、“寄り合い”というかたちをとり、とくにそこでは、なにが“正しい”のか、議論するようなこともなく、ただ、それぞれの意見、お話が、重なっていたということだろう。

どこかに「正解」というものがあって、それを言い当てることができたり、あるいは、その正解を知っている誰かがすでにいて、その人と結びつくことのできる特権性があったりするというような、「正しさ」をめぐる階層性ではない。

-引用-

http://hahaki889.hatenablog.com/archive/2016/12/23