会いたい気持ち 待つこと #胎児的身体
本日朝の気付き。
仕事、会社、業績、「結果主義」の横行。
しかし「生命力」は 結果ではなく“プロセス”の中で湧き出る?
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そのプロセスは、単純な時間的経過でなく、“待つ”ことの“熱意”であり、それは「あなたに会いたい」という“愛”に近いような気持ちだろう。
しかし、「それは待ち焦がれている気持ちだ」「そこには熱意があるだろう」「言葉にするならそれは愛だ」、というのもまた、「結果」としての物言いであろう。
プロセスというのは、意外に難しいのだ。
お腹の中の胎児は、母体として絶えずささやきかけている存在に対し、待っている、会いたい、という気持ち、衝動の中で身をよじらせているのかもしれない。
そう、メビウスの帯のように身をよじらせている。それはもともと、双つが一つのものであったがゆえに。
時が来るまで会えないとして、その間の、会えないこと、待っていることの時間の中、持続の中で、「生命が湧き出て」いるのではないか。
待つことはなかなか容易ではないが、食事を待つまでの空腹の中で、生命力を賦活する物質が出ているという説もある。
幅が無い、とは、結果がないということであり、それは待つ時間、待ち焦がれる時間であると言える。
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※余談。「祭り」は「待つ」が起源とある。そこに胎児的な身体感覚や意識の在り方が反映しているかもしれない。共同的な想念の場として。
【まつる(祭・祀)】神霊にものを供えて拝すること。神のあらわれるのを待ち、その神威に服することをいう。【待つ】と同源の語。祭酒を「待酒」という。まつりのことをまた【まち】【日まち】のようにいうところもある。類義語の【いはふ】は潔斎、【いつく】は清浄にして仕えること。
— 白川静 (@sizukashirakawa) 2015年10月20日
以下、 「乞(こ)い」は求めることであり、「气は氣の初文」とあるのは、乞=气=氣であると考えてよいのかもしれない。
画像:乞、气、氣 『字通CD-ROM版/白川静』より