画家Mさんの勧めるアニメ映画

『シンゴジラ』、『君の名は』、『この世界の片隅で』。

これらの作者、作品チームが、宮崎駿ジブリのそれを“上まわった”、弟子が師匠を越えた、とのことで、ぜひとも観るべきであるものが、

ここしばらく体調が今ひとつで、その感動を受けとめる気分にならない。

こういう場合、それこそ画家のガイドで、映画ツアーなど組んでいただけると助かるのだろう。

とくに地方は、広い映画館の中で客がひじょうに少ない。昔の映画館と異なり、なんだか寂しい空間である。

感動を受けとめるのは、ひとつ感情能力であろう。感情能力、アストラル体の能力。

これは、エゴと結びついた手前勝手な側面と、逆に、身体と結びつき、他者性へと広がりをもつ側面とがあるそうだ。

(つまり、アストラル体が、身体~エーテル体とむすびつくことを前提に、エゴ~自我とむすびつくことで、低位の自我が高位の自我へと高められるということだろう。)

それは上位の感情能力と呼べるのだろうが、それがひとつの公共性を構成する。

ここ一ヶ月ほど、母親と夕飯を共にしているが、まず、家族とメシを食べておいしい、今日は良いお話ができた、・・・そういうところから始めている。

それを単なる義務や慣習ではなく、双方ともに自覚的に、意識的に、やるということがポイントかと。

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新潟は、漫画やアニメの文化が濃い。おそらく、冬期雪に閉ざされる内職文化、あるいは出稼ぎ文化が関係しているのだろう。

この社会の共同性は、とくに言えば、米作りによって担保されてきた側面があるという。

米や稲作がこの社会にあって特別であるというのは、それがいわゆる近世において貨幣的な存在であったことの他に、その営為をめぐる心や身体のあり方が、広く公共性をもたらしてきたということがあるらしい。

(このようなこの社会に固有の問題テーマに関して、のうのうと言及する資格がこの自分にあるのだろうか?(笑))

見たことはないのだが、田楽などといい、歌と踊りでもって、田植えを始めるようなことがあったらしい。

共同性は、共感性に担保されている。つまり、身体の、エーテル体的な、リズムやうねりの共感性があるのだ。

アニメ=アニマということで、動き、動物ということである。

身体の共感性は、経済グローバル化により、とくに言えば工場労働が大幅に減退したことにより衰退している。農業→工業という流れの中で引き継がれてきたものがあったということ。

それは内職や、出稼ぎとも関係があるだろう。

都市の工業化社会、とくに東京は、地方の、裏日本と東北からの出稼ぎ労働の延長化された空間であったのだろう。

稲作に代表される“集約的労働”での、ギュッと凝縮された、身体と動きの共感性のエッセンスのようなものが、社会に共有されるということ。

それが、今日の脱工業化としての情報化社会においては喪失された。

そのことと、今日本人が、アニメを必要としている、あるいは、アニメ文化そのものの変質、ということとリンクしているような気がするが?

(十代のころ、新潟のコミケットであるガタケットを作ったSがいた。ガンダム、ヤマト、いわゆるオタクたちの環境に触れる機会があったが、あれは今思えば、“コミュニティー”だった。それを支えるのが、絵を描く、なぞるという、身振りだという側面はあろう。まずはともかく二次創作としてのイラストから始まるのだ。)

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-引用-
そういう作品は作者や関係者が何度も何度も観返し読み返し、何度も何度も修正したり多くは変更して練り上げた気迫の集積だ。

その過程で思い付きやセンスみたいなものが研磨され洗練され磨かれて行く。

そこまで何度も何度も見返されて世に出たものにこそ、精霊(スピリット)は宿るのだ。
-引用-

それが「縄文スピリット」だというのは、それがそれこそ詩人の河村悟氏が言っていたところの、古来の「器の思想」に関係があるのだろう。

それそのものは空である、器に、スピリットが宿る。

この器には、身体、つまり器としての身体というものが関係しているのだろう。

詩人が質疑応答の中で言及していた世阿弥の「にじみ間」も、共感する身体の“ゆらぎ”が関係するに違いない。

エーテル体的な共鳴であり、それにアストラル体が、ある状況のもとで関与しているということだが、その共感性の場は、「上位の自我」へとつらなる、新たな要素を構成し始めているのだろう。

それは義務的な習慣や因習という話ではなく、個の、自覚的な営みや方向性となっているのだろう。

伝統に埋没することは退行であるが、また同時に、あらゆる伝統はかたちを変えて復活していくというふうに、画家の書いた記事を読み取った。

参考ページ:Facebook https://goo.gl/nJdrW8

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画像:「器」「口」「霊」『字通CD-ROM版/白川静

・・・「器」の中に「犬」があるのは、エーテル体とむすびついた、犬という動物の、活発なアストラル体と関係があるのだろう。

古代にあってのそれは、現代にあっての人間の労働と関係があるかもしれない。

「口」を含む漢字は多数ある。これを飲み喰いする口ではなく、霊の器として捉えることで、印象は大きく変わる。

「霊」において、雲と器をとりむすぶ雨、降る雨の意味するものはなんだろうか?

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