肉としてのギュッパー空間

“知覚の哲学者”であるメルロポンティが、「空間は肉である」と言ったらしい。

この場合、ポンティの言う空間とは、対象的な空間ではなく、間身体性としての、相互に対称的な意識の運動性をもつ空間である。

つまり、物質的~客観的な空間ではなく、身体的~意識的な空間である。

-引用-
原形質流動は細胞内小器官に様々な生体分子を細胞内で輸送するための細胞運動である。 ATPをエネルギー源とし、細胞骨格を形成しているマイクロ(アクチン)フィラメントとモータータンパク質(ミオシンなど)との相互作用によって流動力が生じる。 これは動物の筋肉の収縮運動と発生機構的には極めてよく似ている。
-引用-

原形質流動に“意味”はあるのだろうか?

なんとなく思うに、そこに意味や目的などなく、たんに現象であり、もろもろの現象が関係し合うこと、つまりコミュニケーションし合うこと。

そしてその要が“黄金比Φ”であり、すなわちヌーソロジーに言うところの“重心”の作用であり、“神”の働きなのではないか。

なにかを対称的に眺めて、その意味や目的を考える。

これは“観察者”の恣意性をまぬがれない。

観察者が、自分の観察の目的に合うようにして、観察してしまうという、観察の合目的性というものをまねがれない。

この問題を回避するために、客観性、そして統計学(データ)などが用いられる。

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世界があって、自分がいて、なんらかの対象物を見て、これはなんだろうとか、どうしてなんだろうとか、なんのために、とか思う。

これはまあ、素朴な観察の在り方だ。

しかし今や、そのような、物質的な観察のあり方は、ほとんど“飽和”してしまっていて、私たちの関心は、物質としての対象物というよりも、どのようにコミュニケーションしていくか、関わっていくか、という方向に向けられている。

そして、生命というのは要するに、コミュニケーションだから、なにかを対象的に見る、という客観的な観察のあり方を捨て去った時に、逆に、そのコミュニケーションとしてのあり方がそのまま顕れてくる、という側面を持っている。

それはそのまま、「黄金比Φ」という境目から見ていく、という観察の在り方に変わっていくということなのではないだろうか。

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対象物を凝視する観察の在り方は、身を固くしている。緊張しているわけだ。

細胞の原形質流動と、筋肉の収縮運動の在り方は、似ているという。

より自由な原形質流動。そしてより自由な筋肉運動。

それは直接、世の中の観方、観察の仕方と関係しているだろう。

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参考ページ:ブログ 原形質流動に関して - 夢見るハルキゲニア

 


レクチャー ポンティ