人間の営みの本質に関して
「霊」の古い字体は、雨が器に落ちる象(かたち)。
この時、意識は、器の側から見ていると考えてよく、降ってくる雨を下方から見上げる角度ではないか。
それが器であるのは、波紋、つまり響きとして捉える、みたいな話か。
変換人は、人間とヒトの意識を同時に生きるという。
そして徐々に、ヒトの意識の方に寄っていくのだろう。
それは、ヒトとしての本質が、徐々に、人間としての本質を照らし出していく、ということではないだろうか。
つまり、ヒトとしての成分は、いよいよ、人間を人間たらしめていく。それはおそらく「人間の原像」といったものに近く、よりプリミティブなものであろう。
その時、ヒトの意識が、人間とはまったく異なるものであるために、逆に、人間が人間として在るということの本質が照らされ、浮き彫りとなる。
(四肢をもたない蛇は、長い手足をもつ人間の逆位相と言える。そのことにより、人間にとり極めて異質である蛇の研究は、同時に、人間の研究でもあったと考えることができる。)
ヌーソロジーに「重形(じゅうけい)」という用語があるようだ。
-引用-
重形。自己側と他者側がともに人間の内面性を同一視している部分の力。いわゆる客観的時空。高次元情報によれば、月のクレーターの形成原因となっているという。
-引用-
雨粒は、真下からは「点」として見えている。
その点としての雨粒は、「我」ということに近く、点としての局所性というのか、個別性というのか、その中で、ひとつの対象、ひとつの我であると言えるだろう。
一方、真下からの位置を外し、その外側に立てば、雨粒たちは、たくさんの雨として、一般化される。
それは次から次に降り、水面に波紋を重ねていく。
重なって行く時間の経過であろう。
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しんしんと降り続く雪の中、地蔵が動き出して、人間に贈り物を届ける。
そんな昔話があった。
昔の人間が対話する時、“寄り合い”というかたちをとり、とくにそこでは、なにが“正しい”のか、議論するようなこともなく、ただ、それぞれの意見、お話が、重なっていたということだろう。
どこかに「正解」というものがあって、それを言い当てることができたり、あるいは、その正解を知っている誰かがすでにいて、その人と結びつくことのできる特権性があったりするというような、「正しさ」をめぐる階層性ではない。
つまり、人間の、正しさをめぐるあれこれはおそらく、人間の本質ではない。
画像:『字通CD-ROM版/白川静』より