底の抜けた器 破れた笠
ミシャグジ、ミシャグチ、シャグジ、シャクジ・・・
『精霊の王』に「S+K」とあり、サケ、サカ、ソコ、サキ、シュク、など。
これに加えて「ミ」を頭につけることに、なにか意味があるのか?
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それはさて置き、話題の御射神社秋宮。
やはり長野が本場のようです。
底の抜けたひしゃくがフェンスにかけられ、「子安宮」がその祈願の対象になっているそうだ。
Facebookコメント欄にてKさんが指摘されているように、安産祈願であるらしい。
ここで連想したのが以下のエピソード。
吉野裕子さんの本に、祭りが始まる時に、破れ笠を置く習慣が紹介されていた。穴が開いている笠を、地面に伏せておき、なにごとかを祈願するという。
思いつきになるが、体には、使う用途と、使われない用途があるように思う。
人間はたいがい使う用途においてその価値を判断する。しかし体には、使わない、あるいは使えない用途としての二次的な作用や効果があるように思う。
足は歩くためのものであるが、目的をもたずに歩くこともある。歩かずに目的もなく立っている時、独特の感覚世界が開かれる。
他に、使っていない胃袋、使っていない脳。
しゃべる、飲み喰いする、息する、をしていない、口。
器官において、それを構成する部分が、ただ“重なっている”という点に、なにかあるのではないか。
食べもせず、息もせず、唇がただ重なっている状態。
破れ笠も、使われていない。それを地面に伏せるというのは、人間が被るモードではないということだろう。
じゃあ誰がかぶるかといえば、それは、祭りの時に招かれる存在であろう。
穴のあいたひしゃくの場合も、それに似た雰囲気があり、器の用途はもう無いが、逆にそのことで、そこに付いている柄の用途、柄の存在、つまり関係性、媒体性ということであろうが、それがクローズアップされるのでは?
安産祈願ということであれば、妊婦が、それまでの体の働きを失い、代わりに、なにか他のモードがそれに入れ替わる、というようなことか。
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ヌーソロジーでも、延長と持続という考え方をよく取り上げている。
延長とは、ふつうの道具としての用途だろう。持続とは、それを用途たらしめる本質的な力、定義のことだろう。幅と奥行きの話。
人間が、生涯に何千回、何万回、ひしゃくを持って水を汲み注ぐのか。何度、笠をかぶり、脱ぐのか。
そしてやがて人は死ぬ。その行為、道具を道具たらしめた、意識や動作の力能、フォルムがどこかに残されるのだろう。
参考ページ:小野満麿さんのFacebook https://goo.gl/4985BZ
参考ページ:「底の抜けたヒシャクが掛かっていますから、子安宮がその対象となります」https://goo.gl/hpFdL5