方向性の対化の顕在化 黒、赤

 

奄美の大島つむぎに龍郷柄というのがあり、これはハブの文様らしい。蛇の脱皮現象に関心があるので、生物に詳しい某氏にその話を出したところ、ハブの脱皮の時に、皮の下に潤滑液が浸透してきてにごって黒ずんでくるとして、それを透かして、下の赤いウロコの柄が見えてくる。その美しさではないかと指摘され、ほんとうに驚きました。

脱皮直後の新生したウロコの美しさという解釈が妥当だと思っていたところ、古い皮と新しい皮の重なりとして、絶妙な変容の様子を模したものだろうという指摘の深さ。赤と黒、色とかたちのうごめき。その指摘が間髪入れずに出てきたので、ほんとうに驚きました。

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ヌーソロジーでは、「表相」と「方向性」という概念が、関連付けられている。

表相はものの見え姿とのことだそうで、それが自己と他者の間で同一化されている時、これを「表相の等化」と呼ぶ。その同一性が解体される時、「表相の中和」と呼ぶ。

大前提として、自己と他者が、「表相の対化」というかたちで向き合っている。自己と他者が対化であるということが、表相の対化をもたらしている。あるいは逆に、表相が対化していることが、自己と他者が対化であることの現れでもあるでしょう。

その立場の違いを同一化するものが「表相の等化」であるというのは、通常、ヌーソロジーでは「等化」の用語が進化のニュアンスで肯定的に捉えられることが多いので、違ったおもむきになっている。

表相の等化としての同一性、つまり、ものごとに名前を振って、一般化し客観化してしまうことですが、それが解体されるのが表相の中和である。おそらく、人間に特有の「表相=一面的なものの見え」というあり方そのものが、「表相の等化」という同一性のあり方を促す傾向をあらかじめもっている、ということでしょう。

逆に、そのような働きを無化する表相の中和の働きは、特殊な文化現象であり、禅などがその典型ではないか?

精神の顕在化の時代に先だって、表相の中和が広く起こり出すと、次に、「方向性の対化の顕在化」が起きるそうです。

蛇の脱皮にたとえると、表相の中和というのは、古い皮がむけるということでしょう。古い皮がガサガサしてくる。今の人間の言語や世界観も、ガサついてきて、柔軟性を失って来ているのではないか。バラバラになってきている。

それをかろうじて糊付けしているのが、インターネット的な検索や、マスメディア的なゴシップであるような気もします。方向は、世界観の解体に向かっているのではないか。

いざ脱皮のその時に備え、古い皮と新しい皮の間に、潤滑液が浸透してくる。その中で、蛇が蠕動運動をやって、少しずつ脱皮していく。この蠕動運動が「方向性の対化の顕在化」ということに近いのではないか。

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ヌーソロジー解釈の上でいちばんネックになっていたのが、「知覚背面」という概念でした。これがよく分からない。もちろん図式的には了解できるのですが、意識空間として実感できないわけです。

最近それが出てきていて、確かに、世界の見えとしての、表相、=知覚正面といったものの裏側に、貼り付いているなにかがあるという感じがしてきている。それをよくよく注意して観察していると、知覚正面と知覚背面との間に、奥行きの空間というものが確かにあるのですね。

ここが「方向性の対化」の空間でしょう。自己と他者の互いに交差する180度の意識の方向性が、同時に、自分の意識の中に内在化されたような感覚。

これは、意識、あるいは観察における意識の運動の、連続性をもたらします。回転運動ということに近い。(正確には、その回転運動が、方向性の対化の構造を規定しているのでしょう。前後の180度ではなく、90度の角度の作用。2に対する3の位置。)

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道を歩く。むこうから人が来る。その人は、世界を、表相の等化において、捉えています。いろんなことをあれこれと考えています。そしてしかし、その人の意識そのものは、表相の等化というあり方そのものの中で、分断化されています。

方向性の対化の顕在化が起きることは、精神の覚醒とイコールだと言われていますが、自分の中で、知覚正面と知覚背面という二つの向きつけが、方向性の対化として、蠕動運動のごとくある時、世界を言葉で捉え、考え、悩んでいるような状況とは完全に異なっている。

自分の意識、あるいは精神の中に、「方向性」という確たるベクトルが、対化というかたちをともなって、在ることが実感されている。