「重なり」に関して

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3重円はNC(ヌースコンストラクション)の単体型の表現でもあるということで、子宮、胎盤、あるいは松果体などを連想してみる。

肉体の器官は、使われる目的としての働きと、使われない“それそのもの”の働きがあり、後者は二次的、裏の働きであるが、死の領域が生の領域に嵌入してくると、それそのものとしての裏の働きが顕れて来るのだろう。

子供を産めない女性が巫女や産婆になるとか、歳を取って子宮の機能が終わった段階で新しい能力を授かるなどと聞くが、それは使われる目的ではなく、使われないそれそのものの働きの次元であろう。

松果体も、生後から7歳まで機能し、後、母親とつながる本来の機能が失われるらしい。廃用された松果体は、老木のウロのようなもので、そこにおいても、それそのものとしての働きとしての、空間的な機能の嵌入があるのではないか。

口の部分なども、唇、歯、口蓋、舌など、食事やおしゃべり、呼吸などで使われていない時、たんに重なり合っている状態の中で、独特の働きがあるような気がする。空間的な機能であり、「空」の字の中に「穴」があるが、そのようなものかもしれない。

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秋が深まり落ち葉の季節となった。

葉っぱが地面に落ちて、腐敗、発酵という段階に入る。

腐敗や発酵の作用は、「重力」と関係があるのではないか。働きを終えて、一枚一枚と重なって行くが、そこに加わる重力の働きが、鉛直的であるだけでなく、多方向的な、四次元的な方向をもっているような気もする。

そういう意味でも、ただ重なっている器官としての足の裏というものがあって、その感覚がある種の全身感覚となって広がった時、それは、鉛直的な方向である重力が、四次元の空間として方向をもたされるということかもしれない。

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ウェブと異なり、本には重なっている空間がある。読む目的や機能の他に、そのもののたたずまいがある。

使われていることと、使われていないということ。有用であることと、無用であるということ。その二つの側面があり、ただ重なっていることは、無用の方に傾いているのだろう。

眠るというのも、機能を失って、ただ重なっているという状態に近い。

そこで、四次元的な、生命的な賦活現象が生じているのではないか。

治すという行為も、機能を回復させるというよりも、機能が回復されるべき前提としてのゼロ、「死」というものをフォーカスさせることであるかもしれない。

それは、治そうとしてなにかしようというよりも、ただ重なっているという、重なりそのものへと意識をフォーカスさせることかもしれない。